氷の冷熱貯蔵のメカニズムに迫る -蓄熱材料設計に指針を与える新しい実験手法を確立-(プレスリリース)
- 公開日
- 2007年11月08日
- BL08W(高エネルギー非弾性散乱)
平成19年11月8日
ヘルシンキ大学
財団法人高輝度光科学研究センター
ヘルシンキ大学(フィンランド)のX線物理研究グループは財団法人高輝度光科学研究センター(以下JASRI、吉良爽理事長)と共同で、水・氷の熱貯蔵のメカニズムを検証するうえで重要な氷の配置エンタルピー*1を、コンプトン散乱*2を利用した新しい実験手法により、世界で初めて直接決定しました。これはヘルシンキ大学のKeijo Hämäläinen教授、Seppo Manninen教授、Kim Nygård博士、Mikko Hakala博士とJASRIの伊藤真義副主幹研究員、櫻井吉晴副主席研究員との共同研究による成果です。 エネルギーは物質のどこに蓄えられるのか?ほとんどのエネルギーは、電子が取り持ち原子や分子が手をつないで結合するという形で蓄えられます。エネルギーを解き放つ時、原子や分子は、ばらばらになります。氷は水分子が強く手をつないでネットワークを作って結合してネットワーク構造を作り固体になったものです。非常に大きな冷熱を蓄えることから、夜間の余剰電力や不安定な自然エネルギー(太陽光、風力など)を熱エネルギーとして貯蔵する蓄熱材として広く用いられています。氷の内部において、熱エネルギーは水分子の結合によるネットワーク構造に蓄えられるエネルギー(配置エンタルピー)と、結合された水分子の振動によるエネルギーの2つの形で蓄積されます。熱エネルギーがそれぞれどのような割合で蓄積されるのかは、熱貯蔵メカニズムを検証し、さらに高効率の蓄熱材を開発するうえで重要なのです。しかし、従来の実験手法では配置エンタルピーを直接的に測定することができませんでした。 コンプトン散乱は、強力なX線を物質に照射し、散乱されたX線のエネルギーの失い方から物質中の原子や分子の結合状態を知ることが出来る実験手法です。大型放射光施設(SPring-8)の高エネルギー非弾性散乱ビームラインBL08Wにおいて、SPring-8からの安定で高輝度で高エネルギーなX線を利用した、非常に精度の高いコンプトン散乱実験により、これまで検出が難しかった氷中の配置エンタルピーを直接的に決定することができました。その結果、本研究により、氷は、分子振動に加えて、水分子同士の結合の強さを変えることで熱を蓄えていることがわかりました。従来、配置エンタルピーは分子動力学シミュレーション*3というコンピューターシミュレーションでのみ予測されてきましたが、本研究成果は、このシミュレーション計算の結果を検証し、それを計算の仕方にフィードバックすることで、様々な条件を想定したシミュレーション結果の精度・信頼性を向上することができます。分子動力学シミュレーションの精度向上は、高効率の蓄熱材料の開発に役立つのみならず、現在、基礎科学の分野で議論されている水および氷中の水分子のネットワーク構造の解明に大きく貢献します。また、本研究において開発されたコンプトン散乱手法は水・氷以外の物質に応用することができ、今後新たに開発される新物質の蓄熱特性の基礎研究に幅広く利用されるものと期待されます。 本研究成果は、米国の科学雑誌『Physical Review Letters』(11月9日号)の出版に先立ち11月8日オンライン版に掲載されます。 (論文) |
1.背景
生物が生きていくうえで必要不可欠な“水”はとても不思議な性質を持った物質です。例えば、普通の物質は液体から固体になると密度が増しますが、氷は水に浮くことから理解できるように、水の場合は液体から固体になると密度が減ります。水または氷は水素原子(H)2個と酸素原子(O)1個からなる水分子(H2O)の集合体ですが、このような特異な性質の起源は異なる水分子同士の水素と酸素が手を結ぶということ(水素結合)にあります。図1に氷の構造の一例を模式的に示します。一見簡単そうに見える氷の構造ですが、水素結合をとおして水分子がどのように結合しているかは、よく解かっていません。近年、基礎科学の分野では氷より曖昧な水の構造をめぐって論争になっています。現在、水・氷の構造物性に関する最も有力な研究手段は分子動力学シミュレーションですが、シミュレーションが正しいかどうかの妥当性を確認するには、水分子のネットワーク構造に蓄えられるエネルギー(配置エンタルピー)に関する信頼できる実験データが必要になっていました。
特異な性質を持つ水・氷は冷熱を貯蔵する蓄熱材として一般に広く使用されています。地球温暖化対策として太陽光発電や風力発電など自然エネルギーを利用した発電が広まりつつありますが、この自然エネルギーは天候に左右されるため安定した電量供給ができないという欠点があります。現在、この自然エネルギーを氷蓄熱エネルギーとして貯蔵する取り組みが行なわれています。また、夏場、昼夜間の電力需要差による深夜の余剰電力で氷を作って冷熱を貯蔵し、昼間に氷を解かすことで冷房する氷蓄熱システムが実用化されています。氷の内部では、熱エネルギーは水分子のネットワーク構造に蓄えられるエネルギー(配置エンタルピー)と原子・分子の振動による振動エネルギーの2とおりの形で蓄積されます。熱エネルギーが配置エンタルピーと振動エネルギーの間でどのような割合で割り振られているかは、氷の冷熱貯蔵のメカニズムを理解するうえで重要です。しかし、従来の実験手法では2つを分けて直接測定するが困難でした。
2.研究手法と成果
氷は水分子のネットワーク構造からなり、それぞれの水分子を結びつける手の役割を電子が担っています。ネットワーク構造に蓄えられるエネルギー(配置エンタルピー)は電子の運動エネルギーから求めることができます。コンプトン散乱では運動する電子の速さを直接測定できますので、コンプトン散乱を利用した実験は配置エンタルピーを直接測定する有効な手段です。
実験はSPring-8の高エネルギー非弾性散乱ビームライン(BL08W)で行ないました。175 keVの高エネルギーX線を試料ホルダー中で凍らせてつくった氷に照射し、氷の中の電子とコンプトン散乱して出てきた散乱X線をゲルマニウム半導体X線検出器*4で検出しました。氷中で運動する電子の速さ分布(コンプトン・プロファイル)を50 K(-223 ℃)から250 K(-23 ℃)の温度範囲で高精度測定し(図2)、これらのコンプトン・プロファイルから100K(-173 ℃)の温度を基準にした相対的な配置エンタルピーを求めることに世界で初めて成功しました。
本実験で決めた配置エンタルピーと通常の熱量測定の結果から、分子振動に蓄えられた振動エネルギーも決定することができました。その結果、氷は、分子振動として熱エネルギーを蓄えることともに、水分子ネットワーク構造を構成する水分子間同士の手のつなぎ方の強さを変えることで水分子ネットワーク構造に熱エネルギーを蓄えていることがわかりました。
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図2:コンプトン散乱したX線のエネルギーを測定することで氷中で運動する電子の速さ分布を測定できる(コンプトン・プロファイル、右図ではJ(q)として示す)。右図に、各温度での電子の速さ分布を100 K(-173 ℃)の速さ分布からの変化量として示す。振幅が大きいほど、配置エンタルピーの値も大きくなる。横軸の”Momentum q”は速さに比例する量で、1 atomic unitsは光速の約137の1の速さに対応する。 |
3.期待される効果
本研究において開発されたコンプトン散乱手法は水・氷以外の物質にも応用することができます。さらに、同手法は高い物質透過能を持つ非常に高いエネルギーのX線を使っていますので、低温はもちろんのこと高温・高圧下での測定や磁場下での測定も可能で、測定対象試料の環境を選びません。今後、地球温暖化対策の一環として蓄熱技術の重要性がますます高まっていくものと思われます。蓄熱技術進歩には高効率の蓄熱材料の開発が必要不可欠で、コンプトン散乱による実験データと分子動力学シミュレーションを組み合わせた基礎研究は蓄熱材料開発において重要な指針を提供するものと期待されます。
<用語解説>
*1 配置エンタルピー
本文章において、エンタルピーはエネルギーと同じ意味で用いる。氷の配置エンタルピーとは、氷を形成する水分子の空間配置すなわち水分子のネットワーク構造に蓄えられたエネルギーのこと指す。
*2 コンプトン散乱
光(X線)が粒子であることを示す現象。物質にX線をあてたとき、電子にエネルギーを与えた結果、散乱されて出てくるX線の波長が長くなる現象。X線の波長が長くなることはX線のエネルギーが減少することに対応する。見方を変えて、コンプトン散乱をX線の粒子(光子)1個と電子1個の衝突と見なすことができる。衝突の前後ではエネルギーと運動量(電子の場合、電子が動く速さに比例する)のそれぞれの総和が一定に保たれることから、コンプトン散乱したX線のエネルギーから衝突相手の電子の動く速さを測定できる。
*3 分子動力学シミュレーション
コンピュータ上に仮想の原子を多数配置し、原子間の相互作用を仮定して、原子集団がどのような構造をとるか、どのように運動するかを計算で予測すること。分子動力学シミュレーションでは、観測困難な現象や、実験困難な条件下の現象も予想することができる。
*4 ゲルマニウム半導体X線検出器
X線の粒子(光子)1個のエネルギーを測定できるX線検出器。
<問い合わせ先> (研究内容に関すること) (SPring-8全般に関すること) |
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