モット先生(1977年ノーベル物理学賞受賞)の謎を解明 -酸化ニッケルはなぜ金属ではないのか?-(プレスリリース)
- 公開日
- 2008年05月15日
- BL17SU(理研 物理科学III)
- BL29XU(理研 物理科学I)
2008年5月15日
独立行政法人理化学研究所
本研究成果のポイント
○長年の謎を、世界最先端の硬X線光電子分光装置で解明
○酸化ニッケルが電気を流しにくい原因は、ニッケルと酸素の複雑な絡み合い
○さまざまなエネルギーのX線で、電気伝導に関与する電子の特徴を検出
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、大型放射光施設SPring-8に設置した世界最高性能のX線光電子分光※1装置を使って、「酸化ニッケル(NiO)がなぜ金属ではないのか?(なぜ電気を流しにくいのか?)」という長年の謎に迫り、電気伝導の機構がニッケルと酸素が複雑に絡み合った現象であることを解明しました。本研究は、放射光科学総合研究センター(石川哲也センター長)量子秩序研究グループ励起秩序研究チームの辛埴チームリーダー(国立大学法人東京大学物性研究所教授兼任)と田口宗孝研究員、石川X線干渉光学研究室の石川哲也主任研究員、財団法人高輝度光科学研究センターの大橋治彦副主席研究員と仙波泰徳研究員らの共同研究による成果です。 (論文) |
1.背 景
固体の性質の多くは、固体結晶中を動き回っている多数の電子の振る舞いによって決まります。これらの電子の集団には、低いエネルギーを持ったものから高いエネルギーを持ったものまでさまざまな電子が存在します。これらを、エネルギーの低い順に下からつめていくと電子がぎっしりと詰まり、すし詰めになった状態ができます。物理学者たちは、この電子集団を海に見立てて「フェルミ海」※7と呼びます。このフェルミ海では、低いエネルギーを持った電子が海の底の方に存在し、より高いエネルギーを持った電子ほど海面近くに存在します。そして個々の物質の主な性質は、海面近くにいるごく少数の電子によって支配されています。このため、物質の性質を調べたい場合、海面近くにいる電子がどのような特徴を持っているかを調べることが非常に重要です。このように固体結晶中の多数の電子の様子を記述する固体物理の基礎理論をバンド理論といいます。このバンド理論は、量子力学の誕生から間もない1930年ごろまでに確立し、多くの点で成功を収めました。しかしながら、酸化ニッケルのような物質は、このバンド理論によれば金属ですが、実際は電気を流しにくい絶縁体です。
70年も前に提起されてきた「酸化ニッケルはなぜ金属ではないのか」という問題を研究する際にも、やはり酸化ニッケルの海面近くに存在する電子の性質が鍵を握っていました。N. F. モットをはじめとする物理学の巨匠たちがこの問題に挑戦してきた結果、酸化ニッケルの海面近くの電子は、ニッケルに束縛されたニッケルの電子からできている(図1の青い部分)と考えられるようになりました。しかし、その後1980年前半になり、その解釈が一変しました。海面近くの電子は、実は酸素の電子で(図1の水色の部分)、ニッケルの電子は海面よりずっと深いところにいるということが明らかになり、これが現在までの通説となっています。
しかし、この解釈でも実験結果と理論解析が一致しないこと(図2のAとCのピークの不一致)やX線エネルギーに対する依存性の実験結果と理論解析が一致しないこと(図3の赤破線と橙色実線の不一致)など、つじつまが合わない事象の存在が次第に明らかになり、現代でもその実験結果について正しく記述する理論が確立されていませんでした。
2.研究手法と成果
研究グループは、硬X線内殻光電子分光法※8と軟X線価電子帯光電子分光法※9という2つの実験手法を用いて酸化ニッケルのフェルミ海の水面近くにいる電子の特徴・性質を調べました。
硬X線内殻光電子分光測定は、大型放射光施設SPring-8の理研物理科学 IビームラインBL29XUで行ないました。従来の内殻光電子分光では、用いたX線のエネルギーが小さかったため固体の表面の電子しか調べることができませんでしたが、今回の研究では、硬X線というエネルギーの大きいX線を用いることによって、表面ではなく固体内部の電子の性質を調べることを可能にしました。その結果、固体内部に存在するザン・ライス束縛状態というニッケルと酸素が複雑に絡み合った状態にある電子に由来する成分が格段に増加したため、従来よりもピーク強度が大きくなることを観測しました(図2のBと示したピーク)。
次に海面付近の電子の様子を直接観測するために、同じく理研物理科学 IIIビームラインBL17SUの軟X線価電子帯光電子分光装置を用いて測定しました。さまざまなエネルギーのX線を用いて電子のエネルギーピークを調べた結果、本研究の理論解析と実験結果のスペクトルがほぼ一致しました。(図3の黒実線と橙色実線)。このスペクトルの一致は、図2のBと示したピークと同じ起源をもつザン・ライス束縛状態にいる電子がX線のエネルギーに非常に敏感であることを示しています。
そして、上記の2つの異なる実験結果を矛盾なく説明する理論解析を行いました。
その結果、酸化ニッケルの電気伝導機構は、これまで考えられてきたものとは異なり、電気伝導の担い手がザン・ライス束縛状態にある電子であること(図1の緑色の部分)を発見しました。さらに、これまで電気伝導の担い手と考えられてきた酸素の電子は、海面よりもう少し深いところに存在し、ニッケルの電子はさらに深いところにいることがわかりました。ザン・ライス束縛状態は、銅酸化物高温超伝導体において超伝導の担い手として重要な役割を果たしていることがよく知られています。本研究では、そのザン・ライス束縛状態が銅酸化物高温超伝導体に特有なものではなく、電荷移動型絶縁体一般において存在する可能性のあることを示した点でも非常に重要です。
3.今後の期待
この研究の成果は、これまで長い間、難問題とされてきた物質科学(固体物理)研究に新たな一歩を踏みだすもので、遷移金属酸化物の電気伝導機構研究に関して新たな視点と理解を可能にします。また、不揮発性抵抗変化メモリー素子や電気抵抗スイッチングなどの次世代エレクトロニクス材料として酸化ニッケルを応用しようとする研究も盛んに行なわれています。新しい機能を持ったデバイスを作製するためには、その材料の基礎的な電子状態を正確に理解することが、極めて重要な要因となります。したがって、酸化ニッケルの電気を流しにくい原因が、ニッケルと酸素の複雑な絡み合いであるという新しい電子状態の解釈は、酸化ニッケルなどの遷移金属酸化物を次世代エレクトロニクス材料として応用する際の重要な指針になると期待できます。
<参考資料>
1930年代に確立されたバンド理論によると、実際とは異なり、酸化ニッケルは金属になってしまう。その後多くの物理学者たちがこの問題に挑戦してきた結果、海面近くの電子はニッケルに束縛された電子で、それによって絶縁体になるとされた。1980年代にその解釈は一変し、海面近くの電子は酸素の電子であると解釈されるようになり、現在までの通説となっていた。
従来の理論解析(赤の破線)ではピークCは1つのピークであったのに対して、本研究の理論解析(黒の実線)ではピークCが2つに分裂し実験結果を再現できるようになった。また、従来までの実験結果(青線)と比べてピークAの強度がピークBまで増大し、強度の点においても実験結果と理論解析がほぼ一致した。
硬X線に比べてエネルギーの低い軟X線を利用して、海面近傍の電子を直接観測した。実験ではさまざまな軟X線のエネルギーを用いて光電子スペクトルのエネルギー依存性を調べた。従来の理論解析の結果に比べ、今回のザン・ライス束縛状態の成分を含めた理論解析の結果は、低エネルギー領域(0 eV ~約4 eVまでの電子のエネルギー範囲)の実験スペクトルの形状がX線のエネルギーによって変化していく様子をよく再現できるようになった。
<用語解説>
※1 X線光電子分光
物質にX線を照射し、試料表面から放出する電子の個数とエネルギーの関係を調べることにより、物質内の電子状態を調べる実験手法。この手法により、物質内の電子のエネルギー分布を直接観測することが可能。
※2 バンド理論
物質を構成する原子の外側の価電子は固体中をほとんど自由に動き回る。バンド理論は、周期的な原子配列をもつ物質中の電子の状態を量子力学に基づいて記述する固体物理のもっとも基本的な理論の1つである。
※3 ザン・ライス束縛状態
銅と酸素が複雑に絡み合った電子状態で、銅酸化物高温超伝導体の機構を説明するために1988年にスイス連邦工科大学のF.C.ザン(Fu-Chun Zhang:現 香港大学)とT.M.ライス (Thomas Maurice Rice:トーマス・モーリス・ライス)が理論的に導き出した。現在では銅酸化物高温超伝導体を理解するうえでの基本的理論となっている。
※4 銅酸化物高温超伝導体
1986年にIBMチューリッヒ研究所のJ. G. ベドノルツとK. A. ミューラーの両博士が、超伝導転移温度が30Kを超える銅の酸化物を発見。これを契機として、物性科学史上まれに見る集中的な物質合成探索と物性研究が展開され、現在では20種類以上の異なる結晶構造を持つ銅酸化物高温超伝導体が見いだされている。
※5 電荷移動型絶縁体
2つの元素または多数の元素からなる遷移金属酸化物は、大きくモット・ハバード型と電荷移動型の2つに分類することができる。前者では、遷移金属元素上の電子が電気伝導に寄与し、後者では酸素上の電子が電気伝導に寄与する。今回の成果は、電荷移動型では酸素上の電子に加えて、ザン・ライス束縛状態の電子が電気伝導に寄与する可能性を示唆している。
※6 遷移金属酸化物
Ti、V、 … 、CuやY、 Zr、 … 、Agなど、物性を担う最外殻のd軌道が完全に満たされていない遷移金属(周期表の3族から11族に属する金属)を含む酸化物。d電子の複雑な相互作用により、高温超伝導や巨大磁気抵抗効果などの多彩な性質を示す。
※7 フェルミ海
バンド理論によれば、結晶の周期性によって生じたエネルギーの束(バンド)を電子がエネルギーの低い順に埋めていく。バンドが電子によって途中までしか埋められない場合が金属である(図4の左側)。この電子がぎっしり隙間なく詰った電子集団を海水に見立ててフェルミ海と呼ぶ。絶縁体では、海面近くに2つに分裂したバンドが存在し、上のバンドと下のバンドの間にエネルギーの隙間(ギャップ)が生じる。下のバンドは電子によって完全に埋められ、上のバンドには電子が存在しない。(図4の右側) 上下のバンドの間のギャップを越えるエネルギーを持った電子だけが上の空のバンドに上がることができ、電気伝導を担う電子になることができる。絶縁体ではこうした電子の数が非常に少ないため、電気を流しにくい性質となる。金属では、このエネルギーのギャップが存在しないため、海面付近の電子が海面からすぐ上の状態に上がることができ、電気を流しやすい性質になる。
※8 硬X線内殻光電子分光法
硬X線とは、3keV~100keVのエネルギーの高いX線を意味する。硬X線内殻光電子分光法とは、硬X線を使ってフェルミ海の底に存在する電子を1つ取り出した時に、海面近くの電子がどのように開いた穴を埋めようとするかで海面の電子の性質を調べる手法。
※9 軟X線価電子帯光電子分光法
軟X線とはおおよそ100eV~3000eV(3keV)のエネルギーの低いX線を意味する。軟X線価電子帯光電子分光法とは、フェルミ海の海面近傍に存在する電子を直接取り出すことによって、海面近傍の電子の性質を調べる手法。
<問い合わせ先> (研究内容に関すること) 播磨研究所 研究推進部 企画課 (ビームラインに関すること) (SPring-8に関すること) (報道担当) |
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