水に潜む氷の影-水の連続的な状態変化を唱えた常識を覆す - 電子の状態を眺めると、2つの構造が水を支配している -(プレスリリース)
- 公開日
- 2008年06月12日
- BL17SU(理研 物理科学III)
2008年6月12日
独立行政法人理化学研究所
ストックホルム大学
スタンフォード線型加速器センター
財団法人高輝度光科学研究センター
本研究成果のポイント
○100年来の論争が続く水の構造の問題に、電子状態の構造解析で結論
○高分解能の軟X線発光分光装置で、2つの主な構造を世界ではじめて観測
○2つの構造は、水素結合の腕が大きく歪んだ構造と氷によく似た秩序構造と判明
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、大型放射光施設SPring-8※1に整備した軟X線発光分光装置※2で、水の電子状態を0.35 eVという世界最高の分解能で観測し、水には主に「水素結合の腕が大きく歪んだ構造」と「氷によく似た秩序構造」の2種類があることを発見しました。本研究は、放射光科学総合研究センター(石川哲也センター長)量子秩序研究グループ励起秩序研究チームの辛埴チームリーダー(国立大学法人東京大学物性研究所教授兼任)、徳島高研究員、原田慈久客員研究員(東京大学大学院工学系研究科特任講師兼任)、国立大学法人広島大学理学部の高橋修助教、財団法人高輝度光科学研究センターの大橋治彦副主席研究員、仙波泰徳研究員、米国スタンフォード線型加速器センターのA.ニルソン(A.Nilsson)准教授およびスウェーデンストックホルム大学のL.G.M.ペターソン(L.G.M.Pettersson)教授の共同研究による成果です。 (論文) |
1.背 景
水は地球上でもっとも普遍的な物質の1つで、古くからさまざまな分野の科学者の興味を惹きつけ、数多くの実験的、理論的研究が進んでいました。しかし、現在でも水の性質を完全に理解することは容易ではなく、水がどのような構造を持つかということについても論争が続いています。この100年あまりの間、水は、氷によく似た秩序構造を出発点として連続的に構造が歪んだものなのか、それとも特定の構造の間を行ったり来たりするものなのか、という議論は決着できず、絶えず論争されてきました。この議論は1892年、X線の発見で有名なW.C.レントゲン博士(1901年、第1回ノーベル物理学賞受賞)が「水は氷に良く似た成分と未知の成分の2つからできている」というモデルを提唱したことに端を発しています。1933年になって、英国ケンブリッジ大学のJ. D. バーナル(J. D. Bernal)教授とR. H.ファウラー (R. H. Fowler)教授は、水のX線回折のデータをもとに、水は2つの状態ではなく、本来ならば正4面体の頂点に水分子が配置しているはずの氷が、連続的に歪んでできているというモデルを示しました。このモデルは、さまざまな分光学的手法や分子動力学計算による研究結果から、相次いで支持が得られ、瞬く間に世の中に広まりました。中でも分子動力学計算を使った水の3次元シミュレーションは、1980年代以降の計算機の著しい性能向上と相まって、無数の水分子が、正4面体ネットワークの中で熱による揺らぎを受けて、10億分の1秒以下という超高速で結合・乖離を繰り返す様子を動画で映し出し、「氷に近い水」というモデルであることを人々に強く印象づけました。しかし一方で、W.C.レントゲン博士の提唱した2つの状態のモデルや、その派生として考え出された混合状態モデルを支持する研究結果の報告も、現在まで後を絶ちません。
2.研究手法と成果
研究グループは、この問題に別の角度からアプローチするために、軟X線発光分光(図1)という手法を用いて、水分子間に働く水素結合を支配する電子の状態を調べました。大型放射光施設SPring-8の理研 物理科学IIIビームライン(BL17SU)の輝度と単色性及びエネルギー安定性を利用し、液体フローセル※5という軟X線分光用に開発した試料容器と、世界最高分解能を誇る独自の軟X線発光分光装置を組み合わせた分析システムを使いました。その結果、従来の低分解能の分光装置での解析から得ていた、幅広い1つの状態とみなされていた水の孤立電子対※6のピークが、実は2つの成分A、Bに由来していることを発見しました(図2)。2つの成分A、Bの温度による変化を見ると、Aは水蒸気(水分子)のピークに近く、Bは氷のピークに近いことから(図3)、それぞれ「水素結合の腕が大きく歪んだ水分子の海」と「その中に浮かぶ氷によく似た秩序構造」に対応していることがわかりました。温度変化に対して、これら2つのピークはほぼ形状を保ったままで推移しており、中間状態が現れませんでした。このことから、AとBの間の連続的な状態は存在しないことがわかりました。さらにこのピークを詳細に調べると、高温側でAに対するBの強度比が減少していることがわかりました。これは、温度上昇に伴って水素結合の切断が促進され、「氷によく似た秩序構造」が、「水素結合の腕が大きく歪んだ水分子の海」に中間状態を経ずに移行するというモデルで説明されることがわかりました。
研究グループはさらに、実験結果を説明するために、理論計算を行いました。水に対して一般的に用いられる密度汎関数法(DFT法)※7による電子状態計算を、今回用いた軟X線発光分光に適合することができるように改良し、氷と水蒸気に対して行った結果、それらの孤立電子対のピーク位置を精確に再現することに成功しました(図4)。一方で、同じ計算を水に対して行った結果、最新の分子動力学計算から導かれる水の構造モデルを用いても、水に対する孤立電子対のピークは、実験に反して分裂が見られないことがわかりました。このことは、最新の分子動力学計算から導かれる理論的な水の構造モデルに修正を促すとともに、W.C.レントゲン博士が100年以上も前に示したモデルが正しかったことを示しています。
3.今後の期待
水は、我々人間を含む生物、非生物を問わず、さまざまな物質の中で溶媒、溶質として働いていますが、その電子状態が直接議論されることはめったにありません。しかし、水溶液中のさまざまなイオンが、水の局所構造に異なる影響を及ぼすことは周知の事実です。また、固体と液体の界面では、水の構造に対して界面の影響が無視できないことも示唆されています。生物を構成する細胞は、多種のイオンを含んだ水と、さまざまな界面の集合体であるため、水の構造は細胞の働きと切っても切れない関係にあります。水素結合を介した水のネットワーク構造の正しいモデルを得ることは、水を含むあらゆる物質の集合における水の役割を理解するのに役立つばかりでなく、水の知られざる働きを見いだすきっかけになると期待できます。
〈参考資料〉
左の図のように内殻の電子が軟X線によって叩きだされる(軟X線吸収)と、内殻に正孔(電子軌道に電子がない状態)がつくられる。この正孔は不安定なため、右の図のように水素結合に関与する価電子が遷移してより安定な状態になる。その際に放出される光を分光するのが軟X線発光分光である。この軟X線の光エネルギーの強度分布を調べることで電子の状態がわかる。図で、塗りつぶされた丸は電子を、点線で表された丸は正孔を表す。
室温の水の発光スペクトル(実験結果:青い点)に見られるように、孤立電子対ははっきりとした2本のピークとして観測される。水の発光スペクトルは、水分子のもつ価電子状態から推測した2成分(成分Aと成分B)をたしあわせたもの(緑線)でほぼ完全に再現できる。
水の成分AとBに由来する孤立電子対のピーク(図でA、Bと表記)は、それぞれ水蒸気(赤線)と結晶氷(黒線)の対応するピークに近く、それぞれ「水素結合の腕が大きく歪んだ状態」と「氷に良く似た状態」に対応すると考えられる。温度の上昇に伴ってA,Bのピーク強度比は変わるが、中間の状態は出てこない。成分AとBの間に連続的に状態が分布していたら、このようなスペクトルの温度変化は説明できない。
計算による典型的な氷、水蒸気の場合の孤立電子対のピークを下段に示す。(水蒸気はピーク位置で示す)これらはちょうど実験で得られた水の孤立電子対のピーク(上段)の近くに位置する。一方、水素結合の数を0から4まで変えた場合の計算による孤立電子対のピーク位置の分布を中段の色枠で示す。最新の分子動力学計算で導出した水のモデルでは、水素結合の数は大部分が4であり、残りのわずかな部分が0と3の間に分布するため、実験で得られたピークAとBの分裂は出てこない。したがって、これまでの理論を見直す必要がある。
〈用語解説〉
※1 大型放射光施設SPring-8
理研が所有する、兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高の大型放射光施設。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8GeVに由来する。放射光(シンクロトロン放射)とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げたときに発生する、細く強力な電磁波のこと。
※2 軟X線発光分光装置
軟X線発光分光(図1に詳細説明)測定を行うための装置。回折格子を用いてプリズムの原理で軟X線を分散させ、軟X線に感度のある位置検出器を通して光エネルギーの強度分布が得られる。従来型では、微弱な軟X線発光に対する検出効率を落とさずにエネルギー分解能を上げることが難しかったが、本研究では入射光を5ミクロン以下まで絞ることのできる究極の軟X線ビームラインを使用することで、世界最高分解能での測定が可能になった。
※3 分子動力学計算
分子動力学計算は、原子間のポテンシャルを仮定して古典力学的に系の安定構造やダイナミクスを調べる手法であり、その精度は仮定するポテンシャル(力を受ける場における位置エネルギー)に依存する。本研究では、水のポテンシャルとして近年良く用いられているTIP4Pと呼ばれるモデルを用いた。
※4 水素結合
酸素や窒素など、電子をひきつけやすい原子と共有結合した水素原子は電子を引っ張られて弱い正電荷を帯び、隣接原子の持つ負電荷との間に共有結合の10分の1程度の弱い結合を生じる。これを水素結合と呼ぶ。水分子の場合、酸素原子のもつ6つの価電子のうち、2つの電子が2つのOH結合に関与して、残りの4つが2組の孤立電子対となり、隣接する水分子と合計で4つの水素結合を作ることができる。
※5 液体フローセル
軟X線発光分光装置のために開発された照射試料を入れる容器(セル)。軟X線領域の光は酸素と窒素にとても吸収されやすく大気中を伝播できないため、試料に照射するためには真空中で行う必要がある。したがって、軟X線が出入りする容器の窓は、大気圧に耐える機械的強度が必要である。また、軟X線に対する透過率が高いことも必要である。これらの理由から、窓材には窒化シリコンの薄膜が用いられている。また、軟X線照射による試料のダメージや、試料の汚染の影響を回避するために、容器は試料を送液させながら軟X線を照射、検出できるように設計されている。
※6 孤立電子対
最外殻の電子の一部は、1つの電子軌道に定員ぎりぎりの2つの電子が入って電子対を作る。これを孤立電子対と呼ぶ。対を作ると、それ以上化学結合に関与しなくなるため、これは非共有電子対とも呼ばれる。化学結合には関与しないが、局在した負電荷として分子の分極に寄与する。
※7 密度汎関数法(DFT法)
電子状態計算に用いられる近似法の1つ。少ない計算労力でさまざまな物理量を定量的に計算できるため、特に大規模な分子系を対象とする場合に多く用いられる。
(問い合わせ先) 研究員 徳島 高(とくしま たかし) 客員研究員 原田 慈久(はらだ よしひさ) 播磨研究所 研究推進部 企画課 (ビームラインに関すること) (SPring-8に関すること) (報道担当) |
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