ナノ領域に閉じ込められた水の特異な電子状態を発見 -生体細胞内の水のモデルに再考を迫る-(プレスリリース)
- 公開日
- 2013年07月19日
- BL08W(高エネルギー非弾性散乱)
2013年7月19日
公益財団法人 高輝度光科学研究センター
高輝度光科学研究センター(JASRI)は、米国のヒューストン大学、ミシガン大学、テネシー大学と共同で、大型放射光施設SPring-8(※1)の高輝度・高エネルギー放射光X線を用いて、生体細胞内などナノ領域(※2)に閉じ込められた水がコップの中に注がれたまとまった量の水(バルク水)とは大きく異なる電子状態であることを発見しました。 (論文) |
研究の背景
水は日常生活に深く浸透しているだけではなく、地球上の生物が生きていく上で欠くことのできない物質です。その水がコップの中の水のようにまとまった体積を持つこと(バルク水)で、幾つかの優れた性質を有するようになります。例えば、普通の物質なら気体であるはずなのに室温で液体であること、氷が水に浮くことが示すように固体は液体より軽いこと、大きな比熱や気化熱を有していること、などがあります。特に、最後の性質は、冷熱を貯蔵する機器や動物の体温調整などにも使われています。このような特性の起源は、隣接する水分子同士の水素と酸素がそれぞれの電子を介して手を結んでできた水素結合(※4)により形成された水分子ネットワーク構造(図1)にあると考えられています。
近年、工業的に重要な水を通す電解膜の研究開発や生体細胞の機能の研究分野において、ナノ領域に閉じ込められた水の性質に注目が集まっています。ナノ領域の水の挙動や性質を理解するためのモデルとして、水分子同士が弱い静電力で結合してネットワーク構造をつくるという従来のモデルが用いられてきました。しかし、精力的な研究により、ナノ領域に閉じ込められた水は-20°Cでも凍らず、100°Cでも沸騰せず、また水素の原子核であるプロトンの移動が加速するなど、バルク水とは大きく異なっていることが分かってくるにつれて、ナノ領域のモデルとして従来のモデルを用いてよいのかという疑問が湧いてきました。そこで、本研究では、バルク水とナノ領域に閉じ込められた水の状態に違いがあるのかどうかを明らかにするために、コンプトン散乱測定を行いました。
研究内容と成果
水は水分子のネットワーク構造からなり、それぞれの水分子を結びつける手の役割を電子が担っています。ナノ領域に閉じ込められると水分子ネットワークは分断され、水分子ネットワークの電子の速度分布(電子状態を表す指標のひとつ)が変化します。コンプトン散乱は、運動する電子の速度を直接測定できる実験手法であるため、ナノ領域に閉じ込められた水分子中の電子の速度分布の変化を精密に測定できます。
本コンプトン散乱実験では100 keVを超える高エネルギーX線が必要であることから、SPring-8の高エネルギー非弾性散乱ビームライン(BL08W)を用いました。182 keVの高エネルギーX線を試料ホルダー中のバルク水あるいは電解膜中の水に照射し、それぞれの水からのコンプトン散乱X線をゲルマニウム半導体X線検出器(※5)で検出しました。電解膜中の水は、約2ナノメートルの大きさに分断されています(図2)。コンプトン散乱X線のエネルギー分布から水分子中の電子の速度分布をもとめ、水をナノ領域に閉じ込めることにより速度分布がどのように変化するかを見るために、速度分布の差をとりました。図3にバルク水と電解膜中のナノ領域に閉じ込められた水の電子の速度分布の差を示します。2種類の電解膜(Nafion1120とDOW858)について測定していますが、両者は同じ結果を与えています。電子の速度(光速に対する比)がゼロ近傍で正、1-2近傍で負になっており、この結果は、水はナノ領域に閉じ込められると動きの遅い電子の数は減少し、動きの速い電子の数が増加していることを示しています。これらの実験結果は、従来のモデルに比べて17倍の数の電子が速く動くようになることを示しており、バルク水で用いられているモデルをナノ領域に閉じ込められた水に適用できないことが分かりました。すなわち、水をナノ領域に閉じ込めることにより水分子ネットワークが分断されると、個々の水分子は孤立するとともに水分子同士がお互いに強く結合するようになることが明らかになりました。
今後の展開
ナノ領域に閉じ込められた水の挙動を予測するモデルとして、バルク水と同様の水分子ネットワークを前提としたモデルが用いられてきましたが、今回の研究成果は、このモデルの見直しを迫るものです。また、本研究は、ナノ領域に閉じ込められた水のモデルとして、より強く結合している孤立した水分子の描像に立った新しいモデルを提案しました(図2右)。今後、この新しいモデルの検証やさらに進化したモデルの提案により、ナノ領域に閉じ込められた水に対する理解が深まるとともに、モデルをもとに水分子の挙動を予測するシミュレーション法が発展し、より効率的な燃料電池用電解膜の開発や生体細胞の機能に関する理解が進むものと期待されます。
ここで紹介した研究はSPring-8の利用研究課題として行われました。
《参考図》
赤は酸素、白は水素を表す。酸素は負に、水素は正に帯電しているので、静電力により水分子同志は弱く結合して、水分子ネットワーク構造をつくる。ナノ領域に閉じ込められた水は数ナノメートルの大きさに分断され、バルク水とは異なる挙動を示す。
約2ナノメートルの領域に閉じ込められた水分子の概念図。
走査電子顕微鏡像で、白い領域は電解膜分子、黒い領域は閉じ込められた水分子に対応する。
2種類の電解膜(Nafion1120とDOW858)で実験を行った。ナノ領域に閉じ込められることにより水の電子の速度分布が変化する。すなわち、動きの遅い電子の数は減少し、動きの速い電子の数が増加する。ナノ領域閉じ込めによる電子の速度分布の変化量は従来のモデルから推測される変化量の17倍と大きく、従来のモデルをそのままナノ領域閉じ込め水に適用することは出来ない。
《用語解説》
※1 大型放射光施設SPring-8
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高の放射光を生み出す理化学研究所の施設で、その運転管理は高輝度光科学研究センターが行っています。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8GeVに由来。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波のこと。SPring-8では、この放射光を用いて、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われています。
※2 ナノ領域
ナノは長さの単位で、一辺の長さが原子数個から10個(約1ナノメートル)程度になる空間領域。1ナノメートルは10億分の1メートル。
※3 コンプトン散乱
光(X線)が粒子であることを示す現象。物質にX線をあてたとき、電子にエネルギーを与えた結果、散乱されて出てくるX線の波長が長くなる現象。X線の波長が長くなることはX線のエネルギーが減少することに対応する。見方を変えて、コンプトン散乱をX線の粒子(光子)1個と電子1個の衝突と見なすことができる。衝突の前後ではエネルギーと運動量(電子の場合、電子が動く速さに比例する)のそれぞれの総和が一定に保たれることから、コンプトン散乱したX線のエネルギーから衝突相手の電子の動く速さを測定できる。
※4 水素結合
異なる分子の酸素と水素の間に作用する分子間結合のひとつ。タンパク質の構造や氷の特性などにおいて重要な役割をしている。
※5 ゲルマニウム半導体X線検出器
X線の粒子(光子)1個のエネルギーを測定できるX線検出器。
《問い合わせ先》
(SPring-8に関すること) |
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