SPring-8を用いた精密構造解析による分子軌道分布の可視化法を開発、電子状態の直接観測に成功 ― 電荷分布観測による新たな分子設計への提案 ―(プレスリリース)
- 公開日
- 2017年08月07日
- BL02B1(単結晶構造解析)
2017年8月7日
名古屋大学
高輝度光科学研究センター
分子科学研究所
【ポイント】
• 近年の大型放射光施設SPring-8で得られる高輝度・高分解能なX線回折測定
• 詳細な電子状態の議論を可能とするコア差フーリエ合成(CDFS)法による電子密度解析手法の提案
• より幅広い物質における電子物性解明の新たな展開
名古屋大学大学院工学研究科(研究科長:新実 智秀)の鬼頭 俊介(きとう しゅんすけ)大学院博士後期課程学生、澤 博(さわ ひろし)教授、高輝度光科学研究センターの杉本 邦久(すぎもと くにひさ)博士らは、大型放射光施設SPring-81)におけるX線回折実験による分子性結晶2)の分子軌道分布を可視化して定量分析する方法を確立し、分子科学研究所、東京工業大学の研究グループとともに40年間解けなかった擬一次元性分子性結晶中の、実空間における電子状態の直接観測に成功しました。 【論文】 |
【研究背景と内容】
原子により構成される分子は数百万種類以上存在するだけでなく、毎年万の単位で新しく合成され続けています。この分子の集合体である分子性結晶は、それらの組み合わせで構成されるため、実際上無限の物質群を設計することが可能です。分子性結晶では分子間の相互作用や電子相関などのエネルギーが拮抗し、更にそのしなやかさによって、多彩な電子物性を示します。物質の性質(物性)を正しく理解するためには、その系でどのような相互作用が協力/競合しているかを明らかにする必要があり、そのためには精密な結晶構造と電子分布状態の情報が不可欠です。分子性物質の場合には、分子軌道分布状態の観測が物質設計に対する指針を示す上でも非常に重要と考えられています。現在では、計算科学の発展により、分子設計には量子化学計算3)が大きな役割を担っています。しかし、実際の分子性結晶の電子状態を含めた精密な情報を実験的に明らかにすることは、構成原子数が多く結晶構造を記述するための独立なパラメータが膨大になるために困難でした。
我々は、良質な単結晶試料と大型放射光施設SPring-8で得られる高エネルギーのX線によって得られた高輝度・高分解能な回折データを捉えることが可能な装置(BL02B1、図1)を立ち上げ、注意深く丁寧に解析をすることで電荷秩序に伴う微小な構造変化を初めて明らかにしました。さらに、CDFS法による電子密度解析を提案し分子軌道分布状態を直接的に観測する手法を確立しました。
分子を構成しているのは原子です。原子は内殻からK殻、L殻…と表わさせる軌道に順番に電子が詰まっており、その電子数が原子核を構成している陽子と同数の場合にその数が原子番号となります。分子を構成するためには、原子同士が結合を作りますが、内殻の電子はこの結合にはほとんど寄与しません。一方、結合を形成する電子軌道の集まりは分子軌道と呼ばれますが、更にその軌道の一部にだけ電子が存在しているような軌道がその分子の性質に大きく寄与します。通常のX線回折では原子の位置の情報程度しか得ることが出来ませんが、我々の開発した手法は分子の性質を色濃く反映する分子軌道だけを抽出することが出来ます。これが、分子軌道の直接観測を謳っている所以です。
このような新しい実験手法と解析方法を提案するためには、多角的に調べられた標準的な物質の電子状態が説明可能か否かという検証が不可欠です。そこで、本研究では典型的な擬1次元性分子性結晶として知られる(TMTTF)2PF6を選びこの手法の適用を試みました。この系の最初の報告は1978年で、PF6は-1価の閉殻のアニオン(陰イオン)分子、TMTTFは+0.5価の開殻のドナー分子4)であり、TMTTF分子は二量化することで+1価の電荷をもつダイマー(二量体5))を形成して1次元的に積層した結晶構造を形成しています(図2左)。このような非常にシンプルな結晶構造にもかかわらず、温度-圧力相図上では多彩な電子物性(金属、ダイマー・モット絶縁体、電荷秩序相6)、スピン・パイエルス相、反強磁性相、超伝導相)を示します。特に、電荷秩序相では誘電率測定などからTMTTF二量体内で電荷移動が示唆されていましたが、中性子回折など様々な実験が為されたにも関わらず、実空間におけるその直接証拠を捉えることが出来なかった為“構造変化なき転移 (structure-less transition) ”とも呼ばれて、40年以上もミステリーとされていました。
我々は、この系の良質な結晶を用いて様々な測定を試みたデータを収集し、更にこのデータについて現在提案されている様々な電子密度解析の方法を適用してみました。例えば、SPring-8で得られた高分解能のデータの逆フーリエ変換を試みると、数学的にフーリエ変換の打ち切りと呼ばれる影響の為に原子の持つ電子雲をまともに捉えることが出来ません(図3(a))。そこで、原子の持つ結合に寄与しない電子(内殻電子)の情報とフロンティア軌道7) と呼ばれる分子軌道を形成する電子情報を分離する解析手法を用いました。この結果、分子を構成する原子の位置などの精密な情報とフロンティア軌道を形成する電子密度の情報を別々に得ることが出来ました。図3(b)は、このフロンティア軌道という分子軌道の電子雲を描いたものです。この結果、TMTTF二量体内で電子相関による電荷秩序が平均して電荷移動量 δCO=0.20 e という極めて僅かな分量で生じていることを突き止めました。この電荷移動量が微小だったために、様々な実験でその変化をとらえきれなかったわけです。更に、その電荷密度の結晶内の分布は図4に示すように、正孔-rich(黄色)と正孔-poor(緑色)なTMTTF分子が互いに最も避けあう2次元的なウィグナー結晶状態(電子結晶)を形成していることが電子密度レベルで初めて明らかとなりました[図4]。
図3 (a) TMTTF分子の構造、(b) 孤立分子の量子化学計算による分子軌道。分子軌道は電子密度ではなく、量子的な位相の符号によって赤と青に塗り分けられている。実験的に観測できるのは軌道の二乗の電子密度。(c) 逆フーリエ変換によって計算されたTMTTF分子の全電子密度分布。数学的な打ち切りの影響によって原子周りの電子に多くの偽の波が立っていて分子軌道が特定できない。(d) CDFS法によって分子軌道のフロンティア軌道を抽出した電子雲の様子。結合性の炭素間の二重結合の様子や、(d)の図の赤と青の軌道の位相の境目となっている炭素-硫黄間の反結合による節の状態などが明瞭に観測されている。
図4 電荷秩序相のウィグナー結晶状態。正孔の多い(電子の少ない)黄色と正孔の少ない(電子の多い)緑色で表わされたTMTTF分子の長軸方向から眺めた配列の様子。ピンクはPF6の閉殻の陰イオン。価数の異なる分子が自己集積的に離れて結晶化し、矢印で示したように緑の分子の周りの最も近い分子が全て黄色の分子になっている。
【成果の意義と将来】
CDFS法による電子密度解析は、実験的に得られる全電子密度から適切に内殻電子を差し引くことで、フーリエの打ち切りの影響が少ない滑らかな価電子密度の情報を得る手法であり、人為的なバイアスがかからないという特色があります。さらに、放射光で得られる高分解能なX線回折データから精密な原子位置の情報を抽出出来る良質の単結晶さえあれば、特殊な測定技術や解析は必要としません。CDSF法は分子性結晶だけでなく、無機系化合物にも適用可能であり、今後より幅広い物質・材料の詳細な電子状態を議論することが可能となり、機能性材料へ開発への情報提供が可能となります。
しかし、現在のところ材料開発分野における放射光利用について、最適な測定条件と解析には専門的な知識が必要であることは否定できません。今回のように、新しい技術が確立しその適用範囲を拡げていくためには、更に多くの実験と経験を積み重ねていく必要がありました。しかし、放射光の実験はビームタイムに限りがあり、限られた研究者だけで全ての情報を扱うことが困難です。そこで、累積していく情報をデータ化し、機械学習などAIを取り入れることで、最適な測定のサポート技術の開発を目指します。更に、ロボティクスを含めた装置・制御の自動化等を進めることによって、常に最高のセッティングと運用を行うことで、放射光の経験の浅い一般ユーザーでも簡便に利用し成果を上げてもらうことで、世界に誇るSPring-8のポテンシャルを高めていく予定です。
【用語説明】
1)大型放射光施設SPring-8
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設で、その運転と利用者支援などは高輝度光科学研究センター(JASRI)が行っている。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波のこと。SPring-8では、この放射光を用いて、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われている。
2)分子性結晶
多数の分子が分子間力の一種であるファンデルワールス力によって結びついて形成している結晶。ファンデルワールス力による結合は弱いため、格子エネルギーは弱く、柔らかいのが特徴である。
3)量子化学計算
分子の電子分布を計算し、分子の構造や反応性、物性などを解析・予想する手法。実験結果の再現や物性解析のみならず、分子材料設計にも広く利用されている。
4)ドナー分子
電子を受け渡して正孔を持つ正に帯電する分子。その逆をアクセプター分子という。一般的に分子性電荷移動結晶ではアクセプター分子とドナー分子間で電子の移動が起こるが、その比が分子と電荷移動量が整数比から外れるときに導電性を生じる。
5)二量体(にりょうたい)
二量体 (ダイマー、dimer)は、2つの同種の分子が物理的・化学的な力によってまとまった分子のこと。例えば、水素原子は二つが集まって水素分子H2を形成したほうが量子力学的に安定となる。この時、2つの水素原子の軌道が量子力学的な相互作用によって分子軌道を形成する。分子性結晶の中でもしばしば実現する。
6)ダイマー・モット絶縁体、電荷秩序相
電子間の相互作用によって生じる絶縁体。一つの分子の上に2つの電子が来ることを避けるモット絶縁体、隣り合った分子上に電子が来ることを避ける電荷秩序状態など、様々な絶縁体のバリエーションがあり得る。
7)フロンティア軌道
分子を形成する際の原子軌道の重なりの中で、電子によって占有されている軌道のうち最もエネルギーの高い軌道か、占有されていない最も低いエネルギーの軌道をフロンティア軌道と呼ぶ。この軌道の密度や位相によって、分子の反応性が支配されている。
【問い合わせ先】 【SPring-8/BL02B1に関すること】 (SPring-8 / SACLAに関すること) |
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