大腸がんに関わるタンパク質複合体の立体構造を決定 ~より有効な治療法を求めて~
「大腸がんを何とかしたい」
食生活の欧米化に伴い増えている大腸がん。2008年に実施された厚生労働省の調査では、23万5000人の患者が報告されています。これは、2005年の前回調査の21万4000人に対して9.8%もの増加です。深刻な状況にある大腸がんの有効な治療法を確立しようと、タンパク質レベルで発症メカニズムを解明する研究が進められています。
理化学研究所の横山茂之領域長はタンパク質の立体構造解析の第一人者です。これまでに2500以上の立体構造を解析してきました。数年前、大腸がんを研究している東京大学の秋山徹教授から、病巣の写真を見せられました。その時のことを「ショックでした。私にできることはないかと考えさせられました」と振り返ります。こうして横山領域長と秋山教授の「大腸がん発症に関わるタンパク質の立体構造解析」の共同研究が始まりました。
2人の研究はやがて実を結び、2011年10月、大腸がんの発症に関わるAPCタンパク質とSam68タンパク質の複合体の立体構造が発表されました。
やっかいな変異APCタンパク質
大腸がんはどのように発症するのでしょうか。家族性(遺伝性とほぼ同じ意)の大腸がん患者の多くに、APCタンパク質の変異が見られます。正常なAPCは、形態形成や細胞の増殖・分化などにおいて重要な役割を果たすWntシグナル伝達経路にあるβカテニンタンパク質と結合し、その分解を誘導します。ところが、変異したAPCはβカテニン分解を誘導できないため、βカテニンが蓄積し、TCFなどの転写因子と相互作用して、Wnt標的遺伝子の転写を促進します。それらの標的遺伝子は無制御な細胞増殖を刺激し、大腸がんを引き起こします。秋山教授らは最近、APCがβカテニンの分解誘導以外にも、Sam68と結合し、TCFの活性を制御してWntシグナルを阻害することを見いだしました。変異したAPCタンパク質とSam68の複合体はTCFのスプライシング*1を制御できなくなり、TCFのスプライスバリアント*1が増えることでWnt標的遺伝子が強く活性化され、細胞ががん化します(図1)。そこで、横山領域長らは、APCの立体構造がわかれば、大腸がんの発症のプロセスを解明できると考え、X線を使った結晶構造解析を始めたのです。
通常、遺伝子の発現は、正常なタンパク質の相互作用によって制御されている。タンパク質に変異が入り制御が効かなくなると、遺伝子の異常な発現がおこり、がんが発症する。
アルマジロリピートを介してさまざまなタンパク質と結合する足場タンパク質。 | |
細胞接着や細胞融合に関する機能や、核内で転写因子と結合して遺伝子の転写を活性化する機能をもつタンパク質。 | |
スプライシングの制御に関わるタンパク質。 | |
DNAに特異的に結合して転写を制御する転写因子の一種。 |
X線結晶構造解析の戦略
X線結晶構造解析とは、タンパク質の結晶にX線を当て、散乱されたX線の情報から、立体構造を解き明かす方法です。まず、立体構造を知りたいタンパク質の結晶をつくらなければなりません。一口に結晶にするといっても、タンパク質の大きさや性質によって、結晶になりやすいものとそうでないものがあります。APCは、2843個のアミノ酸からできているタンパク質で、これほど大きなタンパク質の結晶化の成功例はほとんどありません。そのうえ、同じようなアミノ酸配列が繰り返し現れる“リピート配列”が随所にあるために、結晶化に必要な“安定した構造”をとりにくいという問題もありました。そこで、APC全体の構造を決めることにこだわらず、機能を発揮するうえで重要な領域に焦点を絞って研究を進めていくことにしました。
アルマジロリピートに注目
今回解析されたのは、APCのアルマジロリピート*2という領域です。このアルマジロリピートは、いくつものタンパク質が結合する重要な領域です。秋山教授らが発見したSam68タンパク質もここに結合することが明らかになり、アルマジロリピート領域は、ますます注目されるようになりました。
そこで、アルマジロリピート領域を人工的に合成して、Sam68と結合した複合体をつくり、その立体構造を解析することにしました。とはいえ、アルマジロリピートを含む、どこからどこまでの範囲を合成すれば、安定なタンパク質を得られるかがわかりませんでした。この研究では、実に100通り以上のタンパク質合成が試され、ついに目的の複合体の合成に成功しました。
成功の秘訣を横山領域長は「私たちが開発した無細胞タンパク質合成系があったからこそ、これだけの数のタンパク質合成を試すことができ、結果として欲しいタンパク質だけを大量に合成することができました。この技術は誰にも負けません」と話します。一般にタンパク質は大腸菌などの生きた細胞につくらせますが、無細胞タンパク質合成系は、材料のDNAやアミノ酸、酵素を混ぜるだけでタンパク質をつくる仕組みで、効率的に目的のタンパク質を合成できます(図2)。
こうしてできた複合体を結晶化させ(表紙の写真)、SPring-8のビームラインBL26B2とスイスのポールシェラー研究所の施設を使ってX線結晶構造解析を行いました。いずれも約2オングストローム(Å:1Åは100億分の1m)という高い分解能での解析に成功しました。
図2.無細胞タンパク質合成系
大腸菌などの生きた細胞を使わずに、試験管や透析チューブの中で欲しいタンパク質だけを効率的に合成するシステム。タンパク質合成に必要なDNAやアミノ酸、酵素などを試験管や透析チューブに入れ、さまざまなタンパク質を合成する。
より良い治療法への足がかり
結晶構造解析の結果に対して、横山領域長は「APCのアルマジロリピートの特徴がよくわかりました。“百聞は一見にしかず”ですね」と語っています(図3)。立体構造からは、アルマジロリピートがつくる溝にSam68がすっぽりと収まっているのがわかります。また、複合体をつくるのになくてはならないアミノ酸もわかってきました。中でもAPCの516番目のリジンについては、アスパラギン酸に変異した結果、大腸がんになる事例が確認されています。こうして徐々に、アルマジロリピートのどの位置に変異が入ると大腸がんが発症するかわかり始めています。「構造がわかったことで、大腸がんが発症するプロセスが詳しくわかりそうです。このプロセスは家族性の大腸がんだけでなく、加齢や食生活が原因の大腸がんにも共通していると考えています」と横山領域長は話します。
「アルマジロリピートはさまざまなタンパク質と結合します。そのうち大腸がんに関わる結合だけをコントロールできるようになれば、効果が高く副作用の少ない治療が可能になります。このように立体構造が決まったことで、どこを狙って治療すればいいのか標的が次第にわかってきました」。さらに詳しく大腸がん発症のメカニズムを知るために、ほかのタンパク質複合体の構造解析が、SPring-8のビームラインで進められています。1つ1つ丁寧に解析していくことが、いつしかより有効な治療法の開発につながるのです。
図3.APCのアルマジロリピート領域(水色)とSam68(赤・ピンク)の複合体の立体構造
Sam68が白丸部分で折れ曲がった形をしており、APCのアルマジロリピート領域(水色)の溝にすっぽりと収まるという構造上の特徴が明らかになった。また、立体構造からは、APCとSam68が互いにどのアミノ酸で接しているかわかる。中でも、APCの516番目のリジン(青色)とSam68の387番目のチロシン(黄色)は、正常な複合体の形成になくてはならないアミノ酸だということが明らかになった。
コラム:横山領域長が米国芸術科学アカデミー外国人名誉会員に
任命式で署名する横山領域長。 同じく2011年にアカデミーの会員に選ばれたサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンによるライブが印象的だったという。 |
2011年4月、米国芸術科学アカデミーから横山領域長に、「外国人名誉会員に選ばれました」という手紙が届きました。1780年設立の、米国でもっとも古いこのアカデミーの会員と
なることは、時代を象徴する功績をあげた人と認められることであり、米国では最高の栄誉といわれています。アルバート・アインシュタインをはじめとする科学者や、ジョージ・ワシン
トンなどの政治家、芸術家などが会員として選出されてきました。日本人会員には、元東京大学総長の有馬朗人氏や理化学研究所理事長の野依良治氏などがいます。横山領域長は2011年の外国人名誉会員16人の1人に選ばれたのです。
横山領域長は返信のなかで、選ばれたことに対する感謝の意とともに、地震と津波で大きなダメージを受けた日本への支援に対するお礼を伝えました。この手紙はアカデミーの意向で多くの会員が目にするところとなり、「手紙を読んだよ。何か出来ることはないだろうか」とたくさんの方から温かく声をかけていただいたそうです。
アカデミーは、広く社会的な活動をすることを求められます。横山領域長は、「タンパク質研究を通じた社会への貢献を行っていく決意を新たにしました」と語ります。
表紙の図 大腸がんの発症に関わるAPCの アルマジロリピート領域と Sam68が結合した複合体タンパク質の結晶 |
用語解説
*1 スプライシング、スプライスバリアント
DNAの遺伝情報がmRNAに転写される際に、余分なものを切り離して再度つなぎ合わせることをスプライシングという。異なる場所でスプライシングが起こり、多様なmRNAが生産されることがあり、この多様なmRNAをスプライスバリアントと呼ぶ。
*2 アルマジロリピート
ショウジョウバエのアルマジロ遺伝子で最初に見つかった領域で、42〜45個のアミノ酸からなる特徴的な構造が繰り返し現れる。
取材・文:サイテック・コミュニケーションズ 池田 亜希子
この記事は、理化学研究所 生命分子システム基盤研究領域 横山茂之領域長へのインタビューに基づき構成しました。