アフリカを救う「眠り病」治療薬の開発
顧みられない熱帯病
アフリカには、ウイルスや細菌、寄生虫による感染症が蔓延し、貧しい国で暮らす人々のほとんどが何らかの感染症にかかっているといわれます。病気になれば、さまざまな障害で働けなくなるし、家畜を飼育できなくなり、それが貧困から抜け出せない最大の原因となっています。ところがこれらの感染症に対する、世界の関心は薄く、これまで十分な対策はとられてきませんでした。そのため「顧みられない熱帯病」といわれています。
眠り病(アフリカ睡眠病)も顧みられない熱帯病のひとつで、アフリカの広大な地域に広がる寄生虫感染症です。人がツェツェバエ(表紙)という吸血性のハエに刺されると、ハエに寄生しているトリパノソーマという寄生虫が体内に入り込み感染します(図1-1)。慢性感染になると、中枢神経系が侵され、うとうとと眠るような状態になり、最後はこん睡状態になって、死に至るという恐ろしい病気で、年間3万人が死亡しています。また、家畜が感染するとナガナ病と呼ばれ、毎年数十万頭の牛が死んでいます。
東京大学大学院医学系研究科教授の北潔さんは、国際協力機構(JICA)のプロジェクトで南米に滞在し、感染症の患者を目の当たりにしたのがきっかけで、眠り病の治療薬の研究を始めました。「眠り病の治療薬はあるのですが、副作用が強く使用が限られています。もっと効果的な治療薬ができれば、アフリカの人々を病気や貧困から救う機会を与えられます」と北さん。
寄生虫の酵素のはたらきをおさえるアスコフラノン
「アスコフラノン」という化合物は、1972年に東京大学農学部教授の田村学造さんが発見したもので、抗がん作用や免疫増強作用があることが知られていました。その発見から23年後、北さんらは、アスコフラノンが、トリパノソーマが生き続けるためのエネルギーをつくる酵素のはたらきを妨げることを明らかにしました。
トリパノソーマは、ツェツェバエと人や牛などの哺乳類の体内で少しずつ体の形やエネルギーを得るしくみを変えながら、増殖します。感染した相手の血液中では、トリパノソーマはミトコンドリアにあるシアン耐性酸化酵素(TAO)という特殊な酵素を使ってエネルギーをつくります。この酵素はトリパノソーマのみが持つもので、人や家畜にはありません。アスコフラノンは、わずかな量でこの酵素のはたらきを抑えてしまいます。すると、トリパノソーマはエネルギーを得ることができなくなり、死滅します。
「トリパノソーマに感染したマウスにアスコフラノンを投与すると、血液の中のトリパノソーマはみるみるうちに大きく姿を変え、死滅してゆきました(図1-2)。なんと30分で、血液からトリパノソーマが消えてしまったのです」と北さんは実験の様子を説明します。アスコフラノンは、トリパノソーマしか持たない酵素に作用するので、トリパノソーマへの効果が高く、かつ人や家畜への影響が少ないと考えられます。そのため、有力な治療薬の候補となりました。
図1-1、図1-2の提供:籔 義貞博士(名古屋市立大学)
マウス血流中のトリパノソーマ(図1-1)とアスコフラノン投与3分後、元の姿を維持できなくなったトリパノソーマ(図1-2)。トリパノソーマは、体長が0.02〜0.03mmほどで、円柱状で中央が太く両端が次第に細くなる紡錘(ぼうすい)形をしている。中央 に核があり、末端近くにキネトプラスト(運動核)があり、その近くからべん毛が始まり、べん毛ポケットとよばれる穴を通って外側に出ている(図1-3)。
放射光で構造解析がスピードアップ
アスコフラノンは、眠り病の治療に有効なことが明らかになりましたが、すぐに治療薬にはなりません。その化合物をもとにして、より有効性や安全性を高め、さらにアフリカの高温な気候でも安定なものにすることや低コストにすることなど、多くの改良が必要です。
治療薬の開発にどうしても欠かせないのが、アスコフラノンが標的とするTAOの立体構造です。構造がわからなければ、アスコフラノンがTAOのはたらきを抑える機構を解明できません。ところが、このタンパク質は、構造も性質もよくわかっていませんでした。そこで、北さんは、タンパク質の立体構造解析を専門とする京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科教授の原田繁春さんと共同で、立体構造の解明に挑みました。
TAOを大腸菌で大量に発現させ、さらに高純度に精製して結晶化し、SPring-8などの放射光実験施設を利用して、X線結晶構造解析を行いました。そして、TAOおよびアスコフラノンがTAOと結合した複合体の構造を明らかにしました(図2、図3)。研究には、SPring-8の構造生物学Ⅰビームライン(BL41XU)および生体超分子複合体構造解析ビームライン(BL44XU)を利用しました。
「TAOは非常に不安定で精製するのがとても難しい物質でした。そのため、高品質な結晶を得るために、10年以上もの時間がかかりました。でも、その間に構造解析技術が進歩して、放射光を使った精度の高い解析ができるようになり、よい成果をあげることができました。また、解析がスピードアップし、結晶化に時間がかかった分を埋め合わせることができました」と原田さんが話します。
TAOはらせん構造を中心としている。
中心にある分子がアスコフラノン。TAOのポケット部分に入り込んでいる。
TAOと相互作用するアスコフラノン
こうして明らかになったTAOとアスコフラノンの複合体の構造では、アスコフラノンは、疎水性ポケットに結合していました。疎水性ポケットとは、水になじみにくい性質を持つ、タンパク質の中に入り込んだ部分のことで、TAOのはたらきに大きく関わっています。その部分にはまりこんだアスコフラノンは、TAOを構成する特定のアミノ酸と分子の間にはたらく弱い力を介して相互作用をしていました。「アスコフラノンの分子がTAOのどのアミノ酸とどんな作用をしているのかが明らかになると、アスコフラノンが酵素のはたらきを抑えるのに重要な部分がわかります。そこで、その構造をもとにして治療薬をデザインすると、アスコフラノンの効果を損なわずに、水によく溶けるなどの特性を持つ使いやすい治療薬をつくることができるのです」と北さんは説明します。立体構造が明らかになると、合理的に治療薬を開発できるため、実用化により近づきます。製薬会社との共同研究も始まっており、急ピッチで研究が進められています。
一刻も早く治療薬を届けたい
より優れた治療薬の開発をめざして、トリパノソーマがエネルギーを得るためのしくみを詳細に調べ、このしくみを標的にした治療薬の探索を行っています。たとえば、アスコフラノンの効果は、グリセロールという化合物を併用すると高まることが明らかになりました。グリセロールがこのしくみにおいて重要な他の酵素のはたらきを妨げるためです。現在、このしくみに関連するタンパク質の構造の解析も進めています。
研究は、北さんを中心に、生化学実験や構造解析、コンピュータ技術を駆使したインシリコスクリーニング*、化合物の合成など研究チームが役割分担をして進めています(コラム参照)。「一刻も早く治療薬をアフリカへ届け、日本の研究の成果を熱帯の国々に役立てたい」とどの研究チームも意気込んでいます
コラム:チームワークで挑む
前列:北潔 東京大学教授、後列左から:原田繁春 京都工芸繊維大学教授、本間光貴 理化学研究所基盤ユニットリーダー、井上将行 東京大学教授 |
眠り病の治療薬の研究は、北さんを中心にチームに分かれ役割を分担して行っています。構造解析を担当する原田さんは化学が専門で、「北さんと出会わなければ、寄生虫のタンパク質の構造解析をすることはなかったと思います。いろんな出会いのおかげで、すばらしい研究テーマに巡り合うことができました」と話します。
「いつも相談をしながら分子を設計しています」と話す東京大学大学院薬学系研究科教授の井上将行さんは化合物の合成が担当です。理化学研究所基盤ユニットリーダーの本間光貴さんは、インシリコスクリーニングを担当。「月に1回は、ミーティングを行い、意見交換をしています。連絡も頻繁にとりあっています」。
みなさんが集まっている様子は、とてもなごやかな雰囲気でした。「治療薬を開発して、アフリカの人々に届けたい」という強い思いを胸に、チームワークで難問に挑んでいます。
用語解説
* インシリコスクリーニング
コンピュータ上でタンパク質と化合物との相互作用について、それらの立体構造に基づいたドッキング(結合)シミュレーションを行って、評価するもの。
取材・文:サイテック・コミュニケーションズ 佐藤 成美
この記事は、東京大学大学院医学系研究科の北潔教授、京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科の原田繁春教授、東京大学大学院薬学系研究科の井上将行教授、理化学研究所創薬分子設計基盤ユニットの本間光貴リーダーにインタビューして構成しました。