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がん遺伝子産物“Ras”を標的とするがん治療薬の開発

がん細胞を狙い撃つ“分子標的薬”

 日本人の死因の第1位であるがん。男性の3人に1人、女性の4人に1人ががんで亡くなっていると言われています。
 そもそもがんは、遺伝子の異常が原因で起こる病気です。人間の体は、約60兆個の細胞からできており、20〜50回ほど分裂すると細胞は自ら死ぬように、あらかじめプログラムされています。しかし、何らかの原因で遺伝子に傷がつくと、細胞が延々と分裂を繰り返すようになってしまいます。いわゆる“細胞のがん化”です。そうなると、細胞はどんどん増殖し、周辺の組織や臓器を壊し、さらには他の臓器にも転移して、健康な体を蝕んでいきます。
 抗がん剤は、分裂している細胞を攻撃する薬ですが、がん細胞だけでなく、正常な細胞をも攻撃してしまうため、嘔吐や脱毛、白血球の減少といった副作用が出てしまうのが大きな問題です。近年、こうした問題を克服する“分子標的薬”という新しい種類の薬が登場してきました。これは名前のとおり、がん細胞に特有の“分子”を標的にするので、がん細胞だけを狙い撃ちすることができ、抗がん剤で見られる副作用は大幅に軽減されます。
 ただし、「がん」と一口に言っても、がんの部位や進行度、体質などによってタイプはさまざま。すでにいくつかの分子標的薬が臨床で使われていますが、限られたがんにしか使えないのが現状です。現在、さまざまながんに効く分子標的薬の開発が世界的に進められているところです。

がん細胞の中では何が起きている?

 細胞の中にはさまざまなタンパク質が存在し、そのうちいくつかのタンパク質の働きによって、その細胞の運命(増殖や死、分化など)が決まります。これらのタンパク質は、細胞内の核の中に収納されているDNA、いわゆる遺伝子をもとにつくられます。遺伝子が傷つけば、つくられるタンパク質の機能もおかしくなり、細胞の運命が変わってしまいます。つまり、がん細胞では、特定の遺伝子が傷つき、その遺伝子からつくられるタンパク質が正しく働かなくなることで、際限なく増殖してしまうのです。
 神戸大学大学院医学研究科教授・片岡徹さんの研究室では、がんに関連するRasというタンパク質に注目し、その分子メカニズムを明らかにしてきました(図1)。「Rasは正常な細胞にも存在し、細胞増殖などのオン−オフを切り替えるスイッチのような役割をしています。しかし、がん細胞ではRasの遺伝子の一部が傷つき、スイッチがオンのままになっていることが多くなり、細胞が増殖し続けてしまうのです。このようなRasの異常は、大腸がんやすい臓がんなど多くのがんで見つかっています」と片岡さんは言います。
 Rasを阻害すれば、多くのがんにおいて細胞増殖を食い止められることから、Ras阻害剤は分子標的薬として期待されています。世界中でRas阻害剤の開発が試みられているものの、いまだ成功には至っていません。しかしそんな中、片岡研究室の島扶美さんは、思いがけないところにRas阻害剤の開発につながる重要な発見をしました。

図1.Rasを介する分子メカニズム。
図1.Rasを介する分子メカニズム。

細胞増殖因子が、細胞膜上にある受容体型チロシンキナーゼに結合すると、それを合図にRasはGTPと結合して活性型(オン)になり、別のタンパク質と結合して次々と情報がリレーされ、細胞の運命が決定される。このような情報伝達のシステムを「シグナル伝達」という。

Rasの知られざる構造を発見!

 Rasのスイッチのしくみを詳しく見ると、RasはGDP*1という物質と結合しているとき(Ras−GDP)は不活性型(オフ)ですが、GTP*1という物質と結合する(Ras−GTP)と活性型(オン)になって、別のタンパク質へのシグナル伝達を開始します(図1参照)。2000年頃、島さんはRasが情報を伝える相手となるタンパク質のX線結晶解析をするというテーマに取り組んでいました。しかし当時、タンパク質の結晶化などしたことのなかった島さんは、なかなかうまくいかず、研究は全くの手詰まり状態だったそうです。
 「なんとか壁を破らないとと思って、RasのX線結晶解析をすることにしました。Rasは比較的、結晶化しやすいタンパク質なので、とにかく自分のやり方が正しいか確かめたかったのです。すでに立体構造がわかっているものを調べても面白くないので、Rasのうち、あまりわかっていないM-Ras*2を調べることにしました」と島さん。
 X線結晶解析の本を読みながら、見よう見まねで、なんとかM-Rasを結晶化したものの、SPring-8の担当者に構造解析をお願いすると、「これじゃ駄目ですよ。結晶をもっと分厚く大きくしないと」と言われ、研究室の学生さんとともに再度、試行錯誤。それから約2年かかって、やっときれいな結晶ができたそうです。
 「SPring-8でその結晶の構造解析をしてもらったら、ポケットのような穴が開いていました(図2)。これまで知られているRasの構造と違ったので『面白い!』とすごく感動したのを覚えています。SPring-8の方には、『壊れているんじゃないですか?』と言われましたが、このポケット構造には絶対に何か意味があると思いました。直感ですね」。
 そこで、島さんは研究室の学生さんと、Rasの構造解析に関する論文を片っ端からプリントアウトして、ポケット構造に関する論文がないか調べました。読んでも読んでも見つからず、諦めかけていたとき、学生さんの机に積み上げられた論文の山の一番上に「RasのスイッチI領域の動的性質」というタイトルの論文があり、たまたま島さんの目に入りました。その論文には、Ras−GTPは一定の形をしているのではなく、ゆらゆらと動いて「状態1」と「状態2」という2つの状態を行ったり来たりしていると書かれてありました(図3)。しかも、状態1のときは不活性型であり、状態2になると活性型になってシグナル伝達を開始するというのです。つまり、これまでRas−GTPのときはオンであると考えられてきましたが、実は、Ras−GTPの中にさらに、オンとオフの2つの状態があり、スイッチは2段階になっていたということです。そして、島さんが見つけたポケット構造は、これまで見つかっていなかった状態1の構造だったのです。
 「多くのRasは、状態1より状態2のほうが構造的に安定しており、状態2でいることが多いため、これまで状態1の構造は発見されなかったのでしょう。M-Rasはたまたま状態1になりやすい性質をもっていたので、私は状態1を結晶化していたのです。M-Rasを選んだこと、論文の山の一番上にその動的性質に関する論文があったこと、そうした偶然が重なり、この発見に至りました」と島さんは振り返ります。

図2.
図2.

既知のRas構造(左:H-Ras)では、シグナル伝達の相手となる標的タンパク質と結合する「スイッチ領域」と呼ばれる部分は閉じているが、島さんが発見した新規のRas構造(右:M-Ras)は、スイッチ領域が開いてポケットを形成していた。

図3.
図3.

Ras−GTPには、状態1と状態2があり、状態2のときに標的タンパク質と結合してシグナルを伝える。つまり、状態2がRasの真の活性型である。このことは「RasのスイッチⅠ領域の動的性質」(Spoerner et al., 2001,PNAS)の論文にすでに書かれていたが、状態1の構造はわかっていなかった。

創薬に向けて

 状態1のポケット部分に、何か物質を結合させて、ポケットを開いた状態にすれば、Rasは不活性型のままになり、シグナル伝達を阻害することができます(図3参照)。つまり、ポケットに結合する物質こそ、分子標的薬の候補になるわけです。島さんたちは、高輝度光科学研究センター利用研究促進部門の熊坂崇さんらと協力し、詳細な立体構造のデータをもとに、インシリコ創薬*3の方法で、ポケットに結合する候補化合物を探しました。
 まず、M-Rasを人のがんで見られるRas(H-Ras、K-Ras、NRas:*2参照)の構造に近づけ、それと強く結合するものを、約4万種の化合物の中からコンピュータシミュレーションで約100種類の化合物に絞り込みました。「SPring-8で得られる立体構造のデータはとても信頼性が高いので、精度の高いシミュレーション計算ができます。インシリコ創薬の研究において、SPring-8の技術は非常に有効です」と島さん。さらに、絞り込んだ約100種の化合物を使って、試験管レベルの実験やマウスを使った実験を行い、細胞増殖の抑制効果が高いと認められる化合物を3つ選定しました。これらをKobeファミリーと名付け、ここ数年以内に前臨床試験*4に入れるように研究を進めているそうです。
 熊坂さんは、構造から創薬にアプローチしています。「状態1と状態2の間で、どのように構造が変わっていくかを詳細に調べています。ポケットに無理やり薬を入れこむのではなく、どういう形のときに状態1として落ち着くのかを見極めた上で、その構造をもとに候補化合物を探した方が、もっと賢くコストをかけずに薬がつくれるのではないかと考えています」。新薬の開発は、成功率が数万分の1とも言われ、とても厳しいもの。いくつもの持ち駒を用意して、実用化へのゴールを目指しています。

表紙:M-Rasタンパク質の結晶
表紙:M-Rasタンパク質の結晶

コラム:医者からがんの研究者に

コラム:先生写真
左から熊坂博士、片岡教授、島准教授

 もともとは消化器内科の医師として、がん患者の治療をしていた島さん。当時は、まだ分子標的薬はなく、抗がん剤の副作用に苦しむ患者さんをたくさん見てきたと言います。「がんの研究がしたいと思って、片岡研究室の門を叩きました。でも、最初に取り組んだのは酵母のRasを使った研究だったので、両親には『お前はがんのパン屋にでもなるんか』と心配されました(笑)。今こうして分子標的薬の開発に携われていることには運命的なものを感じます。両親も今では信用してくれています」。

 

用語解説

*1 GDPGTP
それぞれグアノシン二リン酸、グアノシン三リン酸と呼ばれる物質。Rasは自らに結合するGDPとGTPの交換反応を通じて、細胞内シグナル伝達のスイッチ機能を果たしている。

*2 M-Ras
Rasにはさまざまな種類があり、H-Ras、K-Ras、N-Rasは、哺乳動物のがんに関わるタンパク質としてよく知られ、立体構造もほぼ同じである。しかし、M-RasはこれらのRasとアミノ酸配列(タンパク質の一次構造)が微妙に異なり、また、立体構造も機能もそれまであまり調べられてこなかった。

*3 インシリコ創薬
IT技術を導入した創薬手法。実際に実験をするのではなく、コンピュータ上で発生させた立体構造のデータをもとに、低分子化合物と生体内分子との結合の強さを計算で推定して好ましい化合物を選定したり、薬物として最適なものに改良するためのシミュレーションをしたりする。

*4 前臨床試験
新薬開発において、人を対象とする臨床試験の前に行う試験。動物を使って有効性や安全性を調べる。

取材・文:サイテック・コミュニケーションズ 秦 千里


この記事は、神戸大学大学院医学研究科の片岡徹教授と島扶美准教授、高輝度光科学研究センターの熊坂崇博士にインタビューをして構成しました。