水素燃料電池を支える触媒の力 〜グリーンケミストリーの視点から〜
環境に優しい化学・グリーンケミストリー
化学というと、「原子、分子・・・・難しい!」と思う人が多いかもしれませんが、携帯電話、洋服、家電製品、自動車など、私たちの身のまわりのあらゆる製品は、化学の力なくしてつくることはできません。石油や天然ガスなどを出発原料として、化学反応によってさまざまな化合物に変換し、それをまた反応させて・・・・という具合に何段階も経て、それぞれの製品に必要な材料がつくられます。日常生活では最終製品としてできあがった姿しか目にしないのであまり気が付きませんが、私たちは化学の技術からたくさんの恩恵を受けているのです。
その一方で、20年ほど前から化学工業が及ぼす環境への影響が問題視されるようになりました。製品をつくる際にはゴミが出ます。例えば、化学繊維であるナイロンは、カプロラクタム*1
という物質が原料になります。カプロラクタムは10段階くらいの化学反応を経てつくられますが、このとき、カプロラクタムの4倍(分子の数)もの硫酸アンモニウムが副産物としてできてしまいます。こうした不要な副産物は、別の用途に利用したり、有害な場合には無害化して処理するといった方法がとられてきましたが、それでは資源を無駄使いしていることになりますし、環境や人の健康への影響も心配です。
そこで、1990年に米国の環境省はグリーンケミストリー*2という指針を提唱しました。グリーンケミストリーは「環境に優しい合成化学」ともいわれます。具体的には、守るべき12か条として、「廃棄物は『出してから処理』ではなく、出さない」、「原料をなるべく無駄にしない形の合成にする」、「環境と経費への負担を考え、省エネを心がける」、「原料は枯渇性資源ではなく再生可能な資源から得る」などが示されています。これまでのように効率やコストだけを優先するのではなく、環境に配慮し、生態系や人体への影響を最小限に抑えることを重視した化学技術が、いま求められているのです。
縁の下の力持ち「触媒」
「グリーンケミストリーの12か条には、触媒化学によって実現できることが多くあります。廃棄物を出さないとか、原料をなるべく無駄にしないためには、触媒の力が必要なのです」と首都大学東京の宍戸哲也さんはいいます。
触媒とは、それ自体は反応の前後に変化せずに化学反応を促進させる物質のことです。例えば、水(H2O)は、水素(H2)と酸素(O2)からできます。化学式では、H2+1/2O2→H2Oです。しかし、水素と酸素をただ混ぜておいただけでは水はできません。ここに少量の銅を入れて加熱することで、水素と酸素が速やかに反応して水が生成します。このときの銅は、触媒として働いています。
化学産業で利用される化学反応には、必ずといっていいほど触媒が使われます。触媒は、より良い化学プロセスを実現するためのカギを握っており、実際に前述のカプロラクタムは、新しい触媒が開発されたことによって、たった2段階の反応で合成できるようになりました。この合成法では、硫酸アンモニウムはまったく副生せず、しかも、従来法にくらべて原料は半分以下ですみます。廃棄物を出さない、原料を無駄にしないというグリーンケミストリーの条項を見事にクリアした例です。
燃料電池に使う水素はどこから?
宍戸さんはグリーンケミストリーを念頭においた触媒開発として、水素燃料電池に関する研究をしています。水素燃料電池とは、水素と酸素からエネルギーを生み出す発電システムのことです*3。化石燃料のように、窒素酸化物(NOx)などの有害物質を排出しないため、環境にやさしい次世代エネルギーとして注目されています。現在では、家庭用燃料電池(エネファーム)が普及しつつあり、また、燃料電池車開発も、世界中でさかんにおこなわれています。
「ところで、燃料となる水素はこどこから得るのでしょう。家庭用燃料電池を動かすためには、1分間あたり約10Lの水素が必要になります。これは相当な量です。『水素燃料電池は水しか生成しないから環境にやさしい』というのはよく知られていますが、水素をどうやって得ているかはあまり意識されていません」と宍戸さんはいいます。
燃料電池に使う水素は、天然ガスに含まれるメタン(CH4)やプロパン(C3H8)から水蒸気改質反応という反応によってつくり出されます(図1)。つまり、化石燃料を使って水素をつくっているのです。「燃料電池は、化石燃料を使用する発電よりもエネルギー効率*4が高いことが長所として宣伝されていますが、水素をつくる過程でエネルギー効率が悪ければ意味がありません」と宍戸さん。また、コスト面については、「現在、家庭用燃料電池は200万円くらいで売られていますが、その大部分が水素をつくる燃料改質装置の価格です。この価格が下がれば、全体の価格も下げることができます」といいます。
水素は燃料改質装置でつくられる。まずメタン水蒸気改質反応によって水素と一酸化炭素の混合ガスが生成する。一酸化炭素を二酸化炭素に変えたり(水性ガスシフト反応や一酸化炭素選択酸化)、銅触媒に吸着させたりして、最終的にはガス中の一酸化炭素濃度を20ppm未満にしてから水素を燃料電池本体に供給する。
触媒の構造を見る
メタンの水蒸気改質反応では、水素のほかに一酸化炭素(CO)が生成します。COは燃料電池に悪影響を及ぼし、電池性能を低下させるため、COの浄化処理をおこなったうえで、水素を燃料電池に供給します(図1参照)。これらの一連の反応は、異なる温度でそれぞれおこなわれ、約900°Cから約80°Cまでの大きな温度差があります。しかも、家庭用燃料電池では、電気を使わない夜間はオフになり朝オンになります。毎日オン・オフを繰り返すわけですから、水素をそのつどつくらなくてはいけません。毎日のオン・オフによって温度などの条件が激しく変動するので、水素をつくり出す触媒にとっては、とても過酷な環境です。これに耐え得る触媒、つまり、水素を高速でつくり出す能力(活性)と丈夫さ(安定性)の両方を備えた触媒が必要なのです。
宍戸さんは、高い活性と安定性を備えた水素製造用触媒の開発を目指して研究をおこなってきました。一般的に、メタンの水蒸気改質反応は、ニッケルをはじめとする金属粒子が触媒に使われます。金属のサイズを小さくすると活性は向上しますが、その反面、安定性が低下してしまいます*5。つまり、小さな金属粒子をいかに安定に保持するかが重要な課題になるのです。
宍戸さんは、ハイドロタルサイトと呼ばれる層状化合物の一種を利用することで、小さいニッケル粒子を安定に保持することに成功しました。しかし、実際の動作環境と同程度の厳しい条件(約900°Cでの水蒸気下)で繰り返し反応をおこなうと、このハイドロタルサイトとニッケル粒子による触媒は活性を失ってしまいました。触媒の活性が失われたということは、触媒の構造が壊れて変化してしまったということです。
ところが、ここにわずか0.1重量%(ニッケル原子1000個に対して白金原子が1個以下)というごく少量の白金を加えると、厳しい条件で繰り返し反応をおこなっても活性はほとんど低下しないことがわかりました。つまり、ごく少量の白金を加えることで、繰り返し反応をおこなった後でも、触媒の構造が変化しにくくなったのです。つまり触媒の安定性が向上したわけです。
なぜ白金を加えると安定性が向上するのでしょうか。それを解明するために、宍戸さんは、SPring-8のBL01B1を使って測定をおこないました。「添加した白金はごく少量なので、通常の分析方法ではその構造を明らかにすることは困難ですが、SPring-8の光は非常に明るいので、濃度が低いものを分析するのに非常に力を発揮してくれます」(宍戸さん)
測定の結果、添加した白金は、独立して白金粒子を形成しているわけではなく、ニッケル粒子の表面で合金を形成していることがわかりました(図2)。この形態をとることで、触媒の構造は変化しにくくなり、安定性が高まったというわけです。触媒の安定性が高まると、触媒の寿命が延びるため、製品の耐用年数も延びます。また、白金は高価ですが、使用量はごくわずかなため、コスト面での負担を抑えることもできます。
今回の発見は、活性と安定性を備えた触媒を設計する際の重要な指針になります。触媒化学の発展とともに、燃料電池のさらなる進化が期待されます。
左上の写真の黒い点が金属のナノ粒子、つまり触媒である。金属ナノ粒子はマグネシウム-アルミニウム複合酸化物(ハイドロタルサイトを焼成したもの)の上に分散している(左下の図)。SPring-8のBL01B1を使った解析により、白金(Pt)はニッケル(Ni)金属粒子の表面に存在し、Niに囲まれていることがわかった(右図)。
コラム:原子・分子から現象が見えてくる感動
高校の頃から物理が好きだったという宍戸さん。「例えば、高校の化学では、PV=nRT(理想気体の状態方程式)を習いますが、物理のやり方で、分子1個1個の運動を突き詰めていくと、最後にこの式にたどりつくのです。化学で対象とする分子1個1個は直接は見えないけど、僕らがそれを想像して数式にあてはめて解析すると、結局現象として見える式に合う。これに感動しました。ものごとはちゃんと細かく見ていけば、いずれはわかるということだと思います」。そうして出合ったのがSPring-8が得意とするX線吸収分光という解析法です。これは今回の実験でも使った手法で、原子1個1個の結びつきがわかります。「今の分野に進んだのは、触媒への興味ももちろんありましたが、X線吸収分光を使って原子の配列を明らかにしたかったからというのがいちばん大きな理由かもしれません」。
用語解説
*1 カプロラクタム
ナイロンの一種であるナイロン6の原料。カプロラクタムを高圧で加熱することにより、約200個のカプロラクタムが重合して1つのナイロン6ができる。
*2 グリーンケミストリー
日本では、環境に優しいことに加え、持続成長可能であるという意味も含めたグリーンサステイナブルケミストリー(Green Sustainable Chemistry : GSC)という用語も使われる。
*3 水素燃料電池の発電のしくみ
簡単にいうと「水の電気分解」の逆をおこなう。水の電気分解では、水に電気エネルギーを与えることで、陽極から酸素、陰極から水素が発生するが、逆に陽極と陰極にそれぞれ酸素と水素を供給し、電気を得るシステムが水素燃料電池である。
*4 エネルギー効率
燃料のもつ化学エネルギーのうち、どれだけ電気エネルギーに変換できるかを示す割合。例えば、火力発電の場合、化学エネルギー→熱エネルギー→運動エネルギー→電気エネルギーという段階があり、変換するたびにエネルギーをいくらか損失してしまう。一方、燃料電池の場合は、水素の製造過程を除けば、水素のもつ化学エネルギーから直接電気エネルギーを得るため、エネルギー効率が非常に高い。
*5 金属触媒の活性と安定性の関係
反応は金属の表面で進む。一定量の金属を使う場合、粒子のサイズが小さいほど多くの粒子ができ、表面積が広くなる。すると反応する場所が増えるため、触媒活性は上がる。しかし一方、自然界の性質として、粒子はできるだけ寄り集まって大きな粒子をつくり、表面積を下げる傾向があるため、粒子が小さくなると安定性は低下する。
取材・文:サイテック・コミュニケーションズ 秦 千里
この記事は、首都大学東京 大学院都市環境科学研究科の宍戸哲也教授にインタビューして構成しました。