SPring-8で環境にやさしい高効率エンジンを開発する
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SPring-8で環境にやさしい高効率エンジンを開発する
簡単ではないエンジンの熱効率向上
自動車は現代社会になくてはならない交通手段です。最近では、電気自動車や水素で走る燃料電池自動車も販売されつつありますが、それでも石油から得られるガソリンや軽油を燃料として走る車が主流であることに変わりはありません。アメリカのエネルギー情報局は、2040年においてもガソリンまたは軽油で走る自動車が世界の自動車市場の約95%を占めると予想しています。
その一方で、石油の価格は社会情勢の影響により安定しないことや、石油を燃やした時に出る二酸化炭素が地球温暖化の原因の1つになっていることなどから、石油の使用量を減らしてゆくことが求められています。そのためガソリン車やディーゼル車のエンジンの熱効率(燃料の熱エネルギーをどれだけ動力に変換できるか)を上げることが急務になっているのです。
「今、ガソリンエンジンの熱効率は最大で36%。それを50%にまで引き上げるのが、自動車先進国における重要な課題になっています。現状では、“熱効率を1%上げるのに数年かかる”とも言われていますから、目標達成には途方もない時間がかかってしまいます」と話すのは、産業技術総合研究所(AIST)の文石洙さん。大学院の博士課程の頃から、ディーゼルエンジンやガソリンエンジンの熱効率を上げる研究をしてきました。「熱効率50%」は、エンジンをよく知る文さんにとって、革新的な燃焼技術が開発されなければ達成できない大きな目標なのです。
この現状をどうしたら打開できるのでしょうか。
注目の直噴ガソリンエンジン
自動車のエンジンは燃料を燃焼させて動力を得ています。かつては燃料と空気を混ぜて混合気をつくり、それをシリンダへ送るタイプのエンジンが主流でした(図1左)。最近では、空気はシリンダ内に先に充填し、そこに燃料を噴射する「直噴エンジン」が多くなっています(図1右)。その理由は、直噴タイプのエンジンでは、燃料を噴射するノズルの形を変えることによって、熱効率改善につながる最適な混合気をつくりだせるようにコントロールできるからです。
そこで、文さんは直噴ガソリンエンジンでの燃料の流れ方を詳細に計測することで、どのように燃料を噴射すれば熱効率がよくなるのかを明らかにしようとしています。
SPring-8だからできた燃料噴射口付近の解明
直噴エンジンにおけるシリンダ内の燃料の流れ方については、これまでも計測が行われてきました。
しかし、レーザー光での計測だったために、噴射直後の燃料がまだ拡散されずに濃くなっている部分を計測することができませんでした。その理由は、燃料によってレーザー光は散乱されたり吸収されたりしてしまうからです。そこでレーザー光よりもエネルギーが高いX線を使って計測する「X線位相コントラスト画像法」を行おうという動きが数年前から始まっています。この方法では、物質を透過したX線から生じる干渉パターンを利用して、噴射直後の燃料の流れの構造を描き出すことができます。
「日本国内にある放射光施設の“どのビームライン”で実験するのが最適なのか、よく検討しました」と文さん。ノズル出口近傍の燃料の流れを観測するために使えるX線は、いくつかの特性が求められます。1つは、燃料の濃い部分を透過するために十分高いエネルギーがあること。そして高速で流れている燃料をシャープに撮影するためには、高速で動いているものを写真撮影するときに、カメラのシャッタースピードを速くするように、短時間で観測しなければなりません。そのためには強くてパルス(信号)の幅が狭いX線が必要です。また、短時間で複数回シャッターを切ることで、少しずつ被写体が動いた画像が得られます。その画像を解析することで、被写体の動き(この場合は燃料の流れ)のスピードと方向を解析できます。そのため、適切なパルス間隔でやってくるX線が必要です。これらの条件を満たすビームラインが、SPring-8のBL40XUビームラインだったのです。
見えてきた燃料の流れ
2013年6月、文さんはマツダ株式会社の支援でSPring-8のBL40XUビームラインに図2のような装置をつくり予備実験を行いました。そして、燃料噴射ノズル出口に近い、燃料濃度が高くて流れが速い領域の鮮明な画像の撮影に成功しました。こうした実験は日本でははじめてのことでした。
この装置を使って、ノズルの形状が燃料の噴射にどのような影響を及ぼすかを解析しました(図3)。その結果から、ノズルの噴孔長さ(L)が短いほど、噴射した燃料の半径方向への速度が速くなること、また激しい乱流が生じて、燃料の微粒子化が進むことがわかりました。また“キャビテーション”と言われるノズル内部に気泡が生じる現象が起こると、今まで行っていた拡大模擬ノズル実験では、ノズルの孔が狭まり、燃料が前へ押し出される速度が速くなることが知られていましたが、今回SPring-8を利用した観察で、この“キャビテーション”の影響がマイクロスケールの実用ノズルにおいても同様に現れること、さらにLが短いほどその影響が大きくなることが明らかになりました。
一般的に、噴出された燃料粒子が細かいほど早く気化して燃焼しやすくなりますが、その反面、噴出速度がすぐに遅くなってエンジン燃焼室の広い領域に届きにくくなり、周辺空気を十分利用できない可能性があります。逆に燃料粒子が大きいと、空気と混ざらず、完全燃焼しにくくなります。また燃料粒子がシリンダの壁面などに付着してしまう可能性も出てきます。従って、エンジンの高効率化に繋がる燃焼のためには、ノズルの形により燃料噴霧の運動量と粒子の大きさを精密にコントロールすることが重要なのです。
2014年に入ってからは、SPring-8においてX線パルスを連続3回照射して撮影できるようになり、噴霧された燃料がどのように流れていくのか、そのプロセスをとらえられるようになりました(図4)。
フラックス108 photons/sec、パルス幅100ピコ秒(ピコは1兆分の1秒)のX線パルス1つをX線シャッターを使ってシングルバンチ部分から切り出して噴射された燃料に照射する。位相コントラストで強調された透過画像をシンチレータで可視光に変換後、ミラーで反射させCCDカメラで撮影した。
ノズルの噴孔長さをL、ノズルの噴孔の直径をDとする。ノズルの噴孔の直径が同じ場合、ノズルの噴孔長さが短いほど、ノズル出口近傍での燃料の流動速度は軸方向、半径方向ともに速くなっている。
X線画像からは、ノズルが短いほど速い流速と流れに生じる乱れのため微粒子化されているのがわかる。
よりよいエンジン開発に役立つ成果
「私は応用の研究者ですから、自分の研究成果が産業界でどう使われるのか常に意識しています」と文さん。この研究成果は実際にはどのように使われるのでしょうか。
かつてエンジンを開発する際には、ノズルの噴孔形状と配置、エンジン燃焼室の形状などの様々な要素を変えながら実験を行い、エンジンの性能を検討していました。しかしこの方法で、最適なエンジンの条件を導き出すには時間がかかります。そこで今は、計算モデルを設定し、そこに実験で得られたいくつかの数値を入れ込んで、さまざまな条件において燃料がどのように燃焼するかを予測します。このデータに基づけば、熱効率の高いエンジンも設計できるというわけです。しかし、現時点ではこの計算モデルの精度はあまりよくありません。
文さんが明らかにしたSPring-8などを用いたノズル近傍の燃料噴霧に関する知見を加えることで、計算モデルの精度は上がります。すでにマツダ株式会社が今回の成果を使って、計算モデルの精度アップに取り組んでいるそうです。
「私の研究は、燃料を噴射した時に起こっている現象を理解するという基礎的な物理です。それが革新的なエンジンを生み出すためには必要なのです」。文さんたちの1つ1つの現象を丁寧に明らかにしていく努力によって、高効率で環境にやさしいエンジンが開発されてゆくことでしょう。
図2の装置を使い、ビームラインからX線シャッターを使ってX線パルスを3つ切り出して噴射された燃料に照射。自己相関解析による変位量から、燃料が時間の経過とともにどこからどこに移動したかがわかる(下)。
照射した3つのパルスの間隔が長すぎても短すぎても燃料の流れをとらえるのは難しい。X線のビームラインのパルス間隔が165.2ナノ秒(約700万分の1秒)だったことも、燃料の流れ方をとらえるのに好都合だった。
コラム:日本初のエンジン噴霧実験
「日本の優れた放射光施設を使おうと思いました」と話す文さんは、「エンジンの燃料噴霧を高輝度X線で観測する」という実験を日本で本格的に展開しています。
韓国出身の文さんは、2007年に韓国科学技術院で博士号を取得すると、ポスドクとして広島大学にやってきました。同大学にエンジンの噴霧研究で世界的に有名な西田恵哉教授がいたからです。その後、アメリカのアルゴンヌ国立研究所に移り、同研究所が所有する放射光施設APS(Advanced Photon Source)で、高輝度X線を使った「エンジン噴霧計測実験」の立ち上げに参加。2012年に再び来日しAISTで研究するようになると、「世界で一番明るい放射光施設があり、自動車産業が盛んな日本で同様な実験ができるようにして、自動車メーカーの高効率エンジンの開発に貢献したい」と考えるようになりました。「この研究は世界的に盛んになると思います」と文さん。エネルギー問題、環境問題解決のためにも、これからますます注目の分野です。
研究室にて
文:サイテック・コミュニケーションズ 池田 亜希子
この記事は、産業技術総合研究所 省エネルギー研究部門の文石洙研究員にインタビューして構成しました。