大型放射光施設 SPring-8

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古代米の塊に刻まれた弥生時代の人々の暮らし SPring-8で日本の農業の始まりを知る

研究成果 · トピックス

古代米の塊に刻まれた弥生時代の人々の暮らし
SPring-8で日本の農業の始まりを知る

 日本で稲作が始まったのは、今から2400年以上前だと考えられています。その頃の人々は何を考え、どのような暮らしを営んでいたのでしょうか。
 当時の人々が書き残した記録があれば、生活様式や文化の一端を知ることができますが、弥生時代と呼ばれるこの時期には、まだ文字がありません。日本の各地から発掘される遺跡が、当時の暮らしを知る有力な手掛かりになります。
 奈良県立橿原考古学研究所特別指導研究員の稲村達也さん(京都大学名誉教授)は、SPring-8の放射光を使って、遺跡から見つかった籾(もみ)や穂の塊である「出土米ブロック」を測定し、弥生時代の農業の姿に迫ろうとしています。

SPring-8で見えてきた弥生前期の農業スタイル

図1

 2012年11月、奈良県御所市の秋津遺跡・中西遺跡で、弥生時代前期としては全国最大級となる水田跡が発見されました(図1)。水田の形を見れば当時の水の管理方法が分かるかもしれないと考えた稲村さん。遺跡の調査が進む中で、籾や穂がひと固まりになって塊状になった資料が、近くの葛城市新村柳原遺跡で発見されました。
 遺跡から出てきた米は「出土米」と呼ばれ、その形態やDNAを調べることで当時の米の特徴やルーツの情報を得ることができます。しかし、これまで調査対象となっていた出土米は、穂から落ちてばらばらに なった籾や玄米が中心で、塊状の出土米を解析した人はほとんどいませんでした。
 稲村さんはこの塊を「出土米ブロック」(図2)と名付け、何とかして解析したいと考えました。稲村さんが出土米ブロックに興味をもった理由は大きくわけて2つありました。
 1つ目の理由は、出土米ブロックの中に「直接、火を受けていない」資料が多く含まれていたことです。出土米ブロックは長い時間をかけてゆっくりと変性してできあがったと考えられています。火を受けていない出土米ブロックなら、籾の表面の微細な毛と共に籾や穂の詳細な構造も残っているかもしれません。解析すればより多くのことがわかると稲村さんは考えました。
 2つ目の理由は、塊になっている資料がもつ情報量の多さです。穂から落ちた米を単独で調べても、どのような集団に属していたのかを知ることはできません。しかし、出土米ブロックは同時に刈り取られた稲の集団かもしれません。また、出土米ブロック内の穂に着生している籾は、ばらばらの粒より多くの情報を含んでいることが予想されます。

図2

 発掘された資料の解析には、しばしば「X線CT計測」が用いられます(CTとはComputed Tomographyの略)。医療現場では体内の臓器を撮影するために用いられていますが、同様に考古学分野では、資料を破壊せずに内部の構造を分析するために用いられます。
 これまで出土米ブロックのX線での解析があまり行われていなかった理由として、通常のX線CT計測では塊状の資料を精度よく解析できなかったことが挙げられます。しかし、強度が強くエネルギー分解能が高い放射光なら可能ではないかと考えた稲村さんは、SPring-8によるX線CT計測を試みました。
 「用いたのはビームラインBL20B2です。高い分解能を得るため、サンプルが動かないように固定しました。境界がはっきりと写るように調整するのがなかなか大変で、セッティングには半日以上かかることもありました。最初は籾1粒から始めて小さいブロックに挑戦し、徐々に大きなものを計測していきました」と、稲村さん。
 測定の結果、維管束などの微細な構造までわかる鮮明なCT画像を得ることができました。

図3

 「SPring-8を用いることで、籾や穂の詳細な外部形態と内部構造、穂の並べられた方向まではっきりと写すことができました。図3をよく見ると籾がひとつの流れに沿っていることもわかります。おそらく刈り取られた穂を手で握って、それが置かれたときの形のまま固まったのでしょう。この出土米ブロックに含まれている籾は、その形態の同質性からひとつの同じ母集団に属していると考えられます」
 出土米ブロックを解析した結果を稲村さんが持ちかけると、「うちにあるから解析しませんか」という声がかかるようになりました。出土米ブロックは、さまざまな遺跡の住居の跡や壺の中、河川のごみ溜めなどから出土して、日本中で大切に保管されていたのです。これまであまり存在が知られていなかったのは明確な解析手段がなかったせいでした。
 稲村さんが解析した出土米ブロックの数は着々と増え続け、現在は159個になったそうです。

SPring-8で見えてきた弥生時代の農業スタイル

 稲村さんが特に注目しているのは、当時の米の「脱粒性」です。米はイネの種子です。野生イネの種子は自然状態で放置しているといずれ地面に落ちて発芽します。このように種子が自然に落ちることを「脱粒」といい、この性質を「脱粒性」といいます。
 地面に落とさないと次の子孫を残せませんから、野生のイネは高い脱粒性をもっています。一方、米を食糧として栽培している人間としては、収穫前にぽろぽろ落ちてしまっては困ります。栽培されているイネの脱粒性は野生のものよりずっと低くなっています。人間は野生のイネの中から脱粒しにくい個体を選んで栽培してきました。日本に稲作が渡ってきたときにはすでに野生のイネとはずいぶん違うものになっていたことがわかっています。
 SPring-8によって籾の基部の構造や玄米の成熟度が詳細に見えると、そこから脱粒しやすさも測定できます。図4は出土米ブロックの中の籾のX線CT画像です。籾の下部に残されている構造(脱離孔)の有無によって、脱粒した籾と脱粒していない籾を区別することができます。ブロックの中の両者の数をそれぞれ数えることで、脱粒しやすさを評価できます。
 稲村さんが脱粒性に注目しているのは、これが当時の米の収量を予想する有力な手がかりになるからです。また、脱粒性は収穫方法と深く関係しています。脱粒性が高い場合は、成熟して脱粒する前に収穫することが現在でもあることから、当時から早刈りをしていたことも予想できます。玄米の成熟度もSPring-8の画像から知ることができ、これらを合わせて考えていくと、当時の農業スタイルが見えてくると稲村さんは語ります。
 さらに、発見された場所も重要だと稲村さんは説明します。同じ奈良県の唐古・鍵遺跡の中で違う場所から出てきた出土米ブロックに含まれる籾のサイズはそれぞれ微妙に異なっていましたが、出土した場所や時代が大きく違うのにもかかわらず、ブロック同士の性質は非常に似ていました。これは、この時代からそれぞれの場所で特定の種類のイネを選別して栽培していた可能性を示しています。
 このように、SPring-8の解析結果とほかの情報を組み合わせることで、当時の農業の全体像が見えてくるようになったのです。

図4

政治、経済、文化も含めた大きなシステムとして農業を考える

 稲村さんの一番の関心は弥生時代初期のイネの収量です。そのために、出土米ブロックの解析だけでなく、水田跡の構造の解析や植物に含まれるカドミウム(Cd)とヒ素(As)の放射化分析なども行っています。なぜ、イネの収量を知ることが大切なのでしょうか。
 「イネの収量がわかれば単位面積あたりでどれだけの人数を養えていたかを計算できます。それによって、その時代のその土地の農業のスタイルが見えてきます。化学肥料も化石燃料もなかった昔からアジアでは小さな面積で手をかけてこまめに管理して収量を増やす小規模の自給的農業が発展し今に至っています。 当時のヨーロッパはその逆です。作物の生育がそれほどよくないので耕地面積を広げ、蓄力を利用して機械で雑草を取り除くような大規模経営が主体でした。このような方法論の違いは、農業だけでなく人々の暮らしや文化や考え方にも影響していくと私は考えています」
 稲村さんは弥生時代の米の解析から、当時の社会の様子や人々の考え方を知ろうとしているのです。さらに、それだけではなく日本における栽培システムの始まりを知りたいと稲村さんは語ります。
 「私の専門は『栽培システム学』です。農学というのは本来、地域による違いや、政治、経済、文化などが複雑に入り組んだ分野です。ですから、学問分野として細かく細分化されてしまった農学をもう一度システムとしてとらえ直す必要があると考えています」
 栽培システム学では、植物だけでなく、人間の営みも一緒に考えていく必要があります。そうなると、文字のない時代は記録が残っていないため、研究対象にするのは困難でした。ところが、出土米ブロックを解析できたことで、人々の営みについて新たな手掛かりを得られるようになりました。文字の代わりに土と植物が記録を残してくれていたのです。
 「土と植物に残された記録を読み取っていけば、古代の栽培システムが明らかになるでしょう。土地の管理方法などもわかってきたら面白いでしょうね」 現在私たちが理解している以上に、当時の農業システムは進んでいたのではないかと稲村さんは遠い祖先に想いを馳せます。
 日本の農業の始まりが明らかになれば、今の私たちの考え方や生き方にも大きく影響が及ぶかもしれません。稲村さんの今後の研究成果が楽しみです。



コラム

吉野川の源流で釣り三昧の少年時代

 稲村さんの趣味は釣りです。夏はアユ釣り、冬は磯でグレ釣り。春は渓流でアメゴ釣りをします。針に毛を付けて虫などの餌にみせかけた「毛鉤」や仕掛けを自作したり、釣り糸を自分で縒ったりもしているそうです。
 「ここ2年ほどは忙しくてあまり行けていませんが、時間がとれるときは毎週土曜日に釣りに行っていましたね。アユの友釣りは小学校に上がる前からしていました。私の生まれたところは東吉野という奈良県の山奥です。最後のニホンオオカミが捕獲された場所からさらに奥に入ったところ、四郷川という吉野川の源流です。奥へ行けばイワナもいます」
 魚釣りの魅力は「釣ったら食べられること」と即答する稲村さん。釣った魚は自分でさばいて料理をするそうです。高校時代から下宿先で自炊をしてきた稲村さんは、料理は得意だと胸を張ります。
 「今は新しくなりましたが、昔はここに橿原考古学研究所の古い博物館がありました。高校の帰りによく寄って遊んでいましたよ。京都大学も奈良から通いました。思えば、ずっと奈良に住んでいます」
 京都大学から自宅に近い橿原考古学研究所に研究の本拠地を移した稲村さん。古都奈良にしっかりと根を下ろし、古代と現代をつなぐ探究はこれからも続いていきます。

調査先の中国にて左から2人目が稲村さん

調査先の中国にて、左から2人目が稲村さん
(京都大学大学院農学研究科 栽培システム学研究室HPより)

文:チーム・パスカル 寒竹 泉美


この記事は、奈良県立橿原考古学研究所 稲村 達也 特別指導研究員(京都大学名誉教授)にインタビューして構成しました。