溶液中の分子軌道の形を判別する観測に世界で初めて成功-放射光の軟X線の偏光特性を使って、溶液中の分子を直接観測-(プレスリリース)
- 公開日
- 2010年06月21日
- BL17SU(理研 物理科学III)
2010年6月21日
独立行政法人理化学研究所
本研究成果のポイント
• 溶液中の分子の軟X線発光スペクトルに、予想外に大きな偏光依存性を観測
• 流動的な液体でも、分子軌道の形が気体と同じに保たれるケースがあると判明
• 溶液中での相互作用の研究やキレート樹脂や分子認識樹脂などの応用研究の新手段に
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、大型放射光施設SPring-8※1の偏光※2した軟X線※3を使って、溶液中の分子の分子軌道の形を明確に判別する観測手法を確立することに世界で初めて成功しました。これは、理研放射光科学総合研究センター(石川哲也センター長)の量子秩序研究グループ励起秩序研究チームの辛埴チームリーダー(国立大学法人東京大学物性研究所教授兼任)、堀川裕加ジュニアリサーチアソシエイト(JRA)※4、徳島高研究員と国立大学法人広島大学理学研究科の平谷篤也教授による共同研究の成果です。 (論文) |
1.背 景
分子が原子核とその周囲にある電子で構成されることは、一般的によく知られています。分子の性質は、分子内の電子の量子的な状態で大きく変化するため、固体分子や気体分子では電子の状態を対象とした数多くの研究が行われてきました。しかし、液体や溶液中の分子に関しては、理論計算によって電子状態が推測されていましたが、それを直接観測する実験手法はごく最近までありませんでした。それは、電子を直接観測するには真空中で測定する手法がほとんどで、真空中では液体試料が気化してしまうこと、複数の分子が混在している溶液試料ではそれらの信号を分離できないことなどが原因でした。
液体や溶液中の分子は、孤立している気体の分子などとは違い、その周りを取り囲んでいる分子から影響を受けていると考えられています。例えば、同じ物質の反応でも水中と有機溶媒の中では、分子の周りを取り囲んでいる溶媒分子との相互作用によって異なる化学反応が起こったり、反応自体が起こらなかったりします。
研究グループは、溶液の中に溶けている分子の電子状態がどのようになっているかを調べることが、液体や溶液中での分子の性質や相互作用の解明へとつながる第一歩であると考えました。そこで、分子の電子状態を観測することができる軟X線発光分光法と呼ばれる実験手法(図1)を用いて、溶液試料を測定するための専用の装置を世界に先駆けて開発しました。この装置は、150nm(1nmは10-9m)の厚さの窒化シリコンでできた薄膜窓材で大気圧下の溶液試料と真空を仕切ることで、真空中でしか伝播することができない軟X線を効率的に大気圧下の試料に照射することを可能にしました。さらに、その際に生じる軟X線の発光のエネルギーを分光器で分析する方法で、分子の電子状態(図2)を観測することができます。この装置を使って、研究グループは、溶液試料の中の分子の電子状態の研究を積極的に展開し、これまでにも、水溶液中の分子の電子状態の観測に成功し(2009年10月1日プレス発表)、水の軟X線発光スペクトルの結果から新たな水の構造モデルを提案するなどの成果を挙げてきました(2009年8月11日発表)。
2.研究手法
これまでの軟X線発光分光法による実験で得られた情報は、電子の状態のうちエネルギーの情報です。もし、分子内での三次元的に広がっている電子の分布(分子軌道の形)の情報を得ることができると、液体や溶液中の分子に関するより詳細な議論が可能になります。そこで、今回の実験では、軟X線の電磁波としての性質である偏光特性を利用しました。分子同士の相互作用が無い気体分子や、金属表面に整列して吸着させた固体分子で行った実験から、偏光した軟X線を照射すると、分子が持つ分子軌道の形の違いによって軟X線の吸収しやすさが変わるため(図3)、軟X線発光スペクトルの違いから分子軌道の形に関する情報が得られることが分かっていました。しかし、常に流動している液体や溶液中の分子では、分子の間の相互作用によって、分子軌道の形が常に乱されるために、偏光によるはっきりとしたスペクトルの違いを観測することができないだろうと考えられていました。
しかし、研究グループがこれまでに観測してきた酢酸※6の水溶液の軟X線発光スペクトルにはシャープなピークがあるため、溶液中の酢酸分子では分子軌道が乱されていない可能性があると考えました。そこで、酢酸を有機溶媒(アセトニトリル)に混ぜた溶液を測定試料として、軟X線発光を観測しました。
3.研究成果
まず、電場ベクトルが垂直な方向と水平な方向に向いている直線偏光した軟X線を照射して、試料中の酢酸分子が発する軟X線発光を観測しました。具体的には、照射する光のエネルギーを面外軌道※7(図4)に分類されるπ*分子軌道が吸収する励起エネルギーに合わせ、軟X線発光スペクトルを測定しました。その結果、偏光の違いによる発光強度の変化が、軟X線発光スペクトルに現れるピークそれぞれに、はっきりと観測することができました(図5)。この場合、垂直偏光で強度が増大するピークBが面外軌道に対応し、逆に水平偏光で強度が増大するピークAが面内軌道※7(図4)に対応します。計算による分子軌道の形状を見ると、確かに実験で求められた分子軌道の分類と一致していることが分かりました。溶液中の分子の軟X線発光スペクトルに、このようにはっきりとした偏光による違いが現れたのは初めてです。
次に、溶液中の酢酸分子では、気体の酢酸分子に比べて分子軌道の形がどの程度乱されているかを、偏光の違いによる発光強度の変化から調べました。分子同士が孤立していて相互作用の無い気体では、軟X線発光スペクトルの偏光依存性を説明する理論があり、気体の酢酸分子はスペクトルの変化の大きさを予測することができます。この予測値と、有機溶媒中の酢酸のスペクトルの変化の大きさを比較したところ、ピークAでは気体分子に対する予測値と良く一致するのに対して、ピークBではスペクトルの変化の大きさが予測値を下回ることが分かりました。このような理論による予測値との不一致は、溶液中での相互作用による影響で分子軌道の形が変化したことが原因であると考えています。今回の結果は、液体や溶液中の分子が常にランダムに流動しているからといって、必ずしもすべての分子軌道の形が乱されるわけではなく、特定の分子軌道だけが溶媒分子との相互作用に関与している場合もあることを示しています。
4.今後の期待
液体や溶液中では物性や化学反応に分子間の相互作用が重要であると考えられていますが、これまで、直接的な観測手段はありませんでした。今回、世界で初めて溶液中の分子軌道の形の変化を明確にとらえることができました。今後、さまざまな液体や溶液の偏光依存性を調べ、分子間の相互作用と分子軌道の関係を実験的に明らかにしていく予定です。今回の成果を発展させることで、水の中に溶けている生体分子とイオンの相互作用、あるいは溶液中での化学反応における溶質分子と溶媒との相互作用など基礎科学的に重要な現象の解明が期待されます。また、キレート樹脂や分子認識樹脂などの金属イオンと分子の相互作用を利用して、金属を分析したりレアメタルを回収したりする技術への応用など、幅広い分野への影響も期待できます。
《参考資料》
図1 軟X線発光分光の模式図
分子軌道のエネルギー準位を示す横線上の塗りつぶした丸は電子を、点線で表した丸は正孔(電子軌道に電子が無い状態)を表す。特定のエネルギーの軟X線を物質に照射すると、軟X線のエネルギーを受け取った内殻電子が電子の入っていない非占有軌道に移動したり(軟X線吸収)、外へたたき出されたりして、内殻に正孔(電子軌道に電子がない状態)が作られる。この正孔は不安定なため、数フェムト秒(フェムト秒=10-15秒、千兆分の1秒)という短い時間で、価電子が正孔に遷移してより安定な状態に戻ろうとする。その時に放出する光をとらえて、電子状態などを知るのが軟X線発光分光である。
図3 偏光した軟X線による分子の方向の選択
A: | 酢酸の分子軌道のうち、実際の実験でも利用されている、π*と呼ばれる分子軌道による軟X線吸収の場合の吸収量の変化を示した。 |
B: | 偏光した軟X線によって分子の方向が選択される様子を示した模式図。図中の発光している分子は、軟X線を吸収したことを示している。左と右で分子は同じ配置にしてあるが、矢印で示した電場の向き(E)によって軟X線を吸収する分子の向きが選ばれている。 |
図5 アセトニトリル中の酢酸分子の軟X線発光スペクトルの電場振動の向きによる変化
アセトニトリル中の酢酸分子が引き起こす軟X線発光を、電場ベクトルが垂直な方向と水平な方向に向いている直線偏光を使って測定した。グラフ上の分子モデルは、以前に行った研究で推測した分子軌道の形状。赤い枠で囲んだ分子軌道は面外に分類される分子軌道を示す。
《用語解説》
※1 大型放射光施設SPring-8
SPring-8は兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高輝度の放射光を生み出す理研の施設。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8GeVに由来。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波のこと。SPring-8では、この放射光を用いて、物理、化学、地学などの基礎研究から、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われている。
※2 偏光
光は粒子性と波動性を持っていることが知られているが、可視光に限らずX線や軟X線も、電磁波としての性質を持っている。電磁波は、電場と磁場の振動によって伝播するが、電場や磁場の振動の向きがそろっている場合が「偏光」と呼ばれる状態である。可視光では、偏光子と呼ばれる光学素子を使って偏光を作ることができるが、軟X線は物質との相互作用が強すぎるため、偏光子を作ることは容易ではない。従って、電場振動の方向の違いに対する変化(偏光依存性)を軟X線で観測するには、実験装置そのものの位置を変えて測定する方法をとる。しかし、この方法では、装置の位置のずれなどが測定に悪影響を与えるため、精度の高い測定は難しい。それに対して、SPring-8のような大型放射光施設では、蓄積リングの中の電子ビームを曲げることで光を発生させているため、もっと簡単な方法で測定が可能となる。理研 物理科学 III ビームラインBL17SUでは、アンジュレーターと呼ぶ磁極を交互に並べた光源装置を導入して、電子ビームを蛇行させることで放射光(軟X線)を発生させており、この蛇行させる面方向を変えることで発生する軟X線の電場振動の方向を水平や垂直にそろえることができる。従って、偏光依存性を光源装置の設定を変えるだけで、簡単に高精度な測定が可能になる。
※3 軟X線
100~2000 eV付近のエネルギー領域の光。医療用などに使われる、エネルギーが高く物質を透過してしまう通常のX線とは異なり、透過性が低く、さまざまな原子や分子によって容易に吸収される。このため、軟X線を物質に照射すると、電子の放出、発光、イオンの生成など、さまざまな応答現象を引き起こす。軟X線発光分光法は、このような軟X線の性質を活用し、物質に照射することで生じる軟X線発光を観測する。得られた軟X線発光スペクトルは、物質の性質に関係する価電子の情報をほぼそのまま反映しており、軟X線発光スペクトルを観測することで分子の価電子状態を調べることができる
※4 ジュニアリサーチアソシエイト(JRA)
知識と経験を豊富に蓄積した研究者と、柔軟な発想と活力に富む若手研究者とが一体となって研究を進めるため、大学院博士課程に在籍する若手研究人材を非常勤として理研に採用し、研究現場において研究活動に参加させる理研独自の職制。
※5 電子の状態
電子は、原子核の正電荷が作り出す分子軌道に捕らえられて、分子の周りを回っており、分子軌道は分子によってその形やエネルギーが異なる(図2参照)。原子や分子の内に存在する電子には、化学結合や物性に深くかかわるものと、ほとんどかかわらないものがあり、酢酸の分子軌道の計算結果から、これらに対応する原子核近傍に局在している分子軌道と分子全体に広がっている分子軌道があることが分かる。原子核近くに局在している分子軌道は、物性や化学結合に寄与しない内殻電子の軌道であり、分子全体に広がっている分子軌道は、化学結合や物性にかかわる価電子の分子軌道である。電子の入った分子軌道を占有軌道、電子が入っていない分子軌道を非占有軌道という。分子の中の電子は基本的にエネルギーの低い分子軌道から詰まっていくため、エネルギーの低い側が占有分子軌道に、エネルギー準位の高い側が非占有軌道になる。
※6 酢酸
酢の成分で、酢の酸っぱい味と香りのもとになっている物質。実験に使われた試料では、不純物の影響をなくすために、研究用の純度の高い酢酸を使って調製している。純度の高い酢酸は、17℃程度まで冷えると固まってしまうため、氷酢酸という別名もある。
※7 面内軌道、面外軌道
酢酸分子では、2個の炭素と2個の酸素が同一平面内にあるため、分子軌道の形状を炭素と酸素のある平面(分子面と呼ばれる)を基準に分類できる。分子面に沿って分布するものを「面内」、分子面の外に張り出す形になっているものを「面外」と分類する。
《報道担当・問い合わせ先》 研究員 徳島 高(とくしま たかし) 研究員 堀川 裕加(ほりかわ ゆか) 播磨研究所 研究推進部 企画課 (ビームラインに関すること) (SPring-8に関すること) (報道担当) |
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