二次元膜粘性の分子論的起源を解明 創薬及び生体膜などの機能制御への応用の可能性(プレスリリース)
- 公開日
- 2021年08月19日
- BL09XU
2021年8月19日
東北大学大学院理学研究科
京都大学
【発表のポイント】
• 二次元モデル生体膜の粘度を計測する新しい方法を開発
• 中性子とX線の分光法により脂質分子の運動の緩和時間を同定
• 分子運動の緩和時間と膜の粘度を関連づけることに成功
• 膜粘性の起源が脂質分子自身の拡散に対する抵抗であることを実験的に証明し、膜構成分子の動きと膜の性質を関連づけることに成功
• 将来的な創薬や膜機能制御への応用の可能性
生体膜は、細胞のさまざまな機能を支える構造体だと考えられています。膜の内部では構成分子が移動し、反応場を形成する必要があるため、これらの機能にとって膜の「流動性」が重要です。この流動性を決定する主要因は、膜内を移動する物体が感じる摩擦、すなわち粘性ですが、膜の厚さはわずか数nm(10-9 m)ととても薄いため、その粘度を測定するのは実験的に難しく、報告されている値には測定技術ごとに数桁の差があります。 【論文情報】 |
【詳細な説明】
私たちの体にある無数の細胞の一つ一つは、わずか2つの分子の厚さからなる構造体に包まれています。細胞膜あるいは生体膜としてよく知られるこの構造体は、化学的に異なる何千もの脂質、糖、タンパク質分子から構成されており、細胞が栄養を摂取したり、成長したり、分裂したりすることで、常にその形を変え、様々な構成要素を局所的に再配置しています。このような運動ができるのは、生体膜が流動的である、即ち流れることができるからです。科学者たちは、流体の流れやすさ、すなわち粘性、を粘度として数値化しており、物質の粘度が高いほど、流れは遅くなります。私たちは日常生活の中で、液体の粘性を目で見て、測定することができます。例えば、油やハチミツが容器から流れ出るのには水よりも長い時間がかかりますが、これはハチミツや油の粘度が水の100倍から1,000倍程大きいからです。しかし、生体膜のように2分子の厚さしかない流体の粘度はどうやって測定するのでしょうか?
米国標準技術研究所、メリーランド大学、デラウェア大学、テネシー大学及び東北大学、京都大学、高輝度光科学研究センター、大強度陽子加速器研究センター(J-PARC)で構成される日米国際共同研究チームは、脂質分子の尾部(疎水性の炭化水素鎖)の運動を中性子とX線で観察することにより、モデル生体膜の粘度を測定する新しい方法を開発しました。米国標準技術研究所中性子研究センターでの中性子スピンエコー分光実験と、日本の大型放射光施設SPring-8で最近実用化されたメスバウアー時間領域干渉法によるX線測定を組み合わせることで、脂質分子が示す運動の緩和時間を4桁以上の時間範囲で定量化し、測定された緩和時間を膜粘性に関連付けることができました。この実験は、膜の粘度を測定する新たな方法を提供するだけでなく、個々の脂質分子の運動がより大きなスケールの膜特性にどのように関連しているかについて、新たな洞察を与えるものです。
脂質の分子運動は速く、その緩和を測定するには、数psから数100 nsの時間スケールを刻む必要がありますが、これが可能になったのは、中性子やX線の分光技術が進歩したここ数10年ほどのことなのです。また、流体中の粒子の移動速度と流体の粘度を関連付ける伝統的な流体力学の理論は、とても小さなスケール、すなわち分子の大きさのスケールでは成り立たなくなってしまいます。このため、他の確立された実験技術で測定された膜の粘度と個々の分子の動きの関連性を言い当てるのは容易ではありません。これは、かのアインシュタイン博士が水面上の花粉の動きを観察して水の運動を言い当てたのと同じです。しかし、観測スケール(アインシュタイン博士の例では花粉の大きさ)がどんどん小さくなり、1つの分子の大きさに匹敵するようになると、水が連続した場であるという流体力学の基本的な考え方が崩れてしまうのです。このような長さのスケールでは、膜の粘性はどのように決まるのでしょうか?
中性子とX線を用いて脂質尾部のダイナミクスを新たに測定した結果、脂質の尾部の動きには二種類の動きが含まれていることがわかりました。一つは脂質の尾部がどれだけ秩序立って密に詰まっているかに直接関係しています。この動きは対応する3次元の流体と比べることが可能です。脂質の尾部は3次元の油と同じ分子構造をしていますので、脂質膜内部は二次元に広がった油と同じ様なものだと考えることができますが、この考えから予想される膜の粘度は実際に計測される値とは異なります。この原因も、今回の実験から明らかになりました。脂質の尾部を2分子の厚さしかない2次元の膜に閉じ込めると、対応する3次元の流体から予想されるよりも分子の動きの特性時間が1桁以上も遅くなり、それに応じて粘度が高くなるのです。もう一つの、よりゆっくりとした動きは脂質分子が周辺の分子との相互作用を受けながら移動し、再配置するものです。この運動成分に特徴的な時間は数100 ps程度と見積もられました。すなわち、脂質分子が周辺の分子の相互作用に打ち勝って動き回る特性時間が数100 psだということになります。この特性時間から見積もられた膜の粘度は文献で報告されている数桁にわたる幅広い値の中間に位置しています。さらに、この特性時間は脂質膜の状態に大きく依存し、最大100 nsのオーダーまで遅くなることがわかりました。
これらの結果が示唆することは、膜の粘性の分子的な起源は脂質分子が感じる相互作用に関連しており、個々の脂質分子間の摩擦、すなわち、自身が拡散していく動きに対する抵抗が粘性の起源であると考えられることです。このような分子レベルでの描像を実験的に同定したのは本研究が初めてであり、2次元膜の粘度というセミマクロな特徴を分子スケールの運動から特定する新しい方法論を提供しています。このような分子スケールの運動は、最新のコンピュータ・シミュレーション技術を用いて比較的容易に研究することができ、今後の実験、理論、シミュレーションの研究を促進することが期待されます。
膜粘度は細胞の機能にとって非常に重要なパラメータであり、例えば、細胞は温度変化に応じて膜粘度が維持されるように脂質の組成を完全に変化させることが知られています。恒流動性適応として知られるこのような機能は生物が急激な温度変化に対応して生命機能を保つ基本的な性質です。今回の結果は、個々の脂質分子の動きがどのように膜粘度に影響を与えるかについての新たな知見を提供するものです。しかしながら、今回の実験では非常に単純な脂質分子が用いられており、今後様々な脂質や複雑な膜についての研究が広がることが期待されます。本研究で取り扱った脂質膜は新型コロナウイルスに対するmRNAワクチンのカプセルとしても使われており、その微視的な分子運動性や粘性の理解は、将来的な創薬分野への寄与や膜機能制御への応用につながる可能性があると、科学者らはみています。
中性子スピンエコー装置の利用は米国標準技術研究所及び全米科学財団の協力による高分解能中性子散乱センター(協定番号DMR-2010792)による援助を得ています。SPring-8のビームラインBL09XUでの実験は高輝度光科学研究センターにより受理された実験課題(2017B1512、2018B1491)により実施されました。本研究の一部はJSPS KAKENHI Grant Number JP19K20600及びJST-CREST JPMJCR2095によってサポートされています。
脂質膜の概念図。
卵状で示した脂質の親水基は水と接触する一方、尾部は膜内に閉じ込められ水との接触が遮られます。今回の研究では脂質分子尾部の運動を中性子及びX線分光法で観測することにより膜の粘性についての知見が得られました。
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